希望さん、みなさん
> 夏目漱石「こころ」は、高校の教科書にその一部が載ってましたので > 何回も読み、主人公の生き方・気持など 授業で討論した記憶があります。
実は 学生に読書感想文を書かせています。 私の場合、力学系の講義をずっとしてきたのでありますが 作文を課題にしてきました。
いまの学生はとくに携帯電話世代で 文章を書くことが苦手です。 社会に出たら、企画書とか報告書など日本語の文章を書く必要がありますから 大学で作文の課題を与えることは彼らのためになると考えます。
そういうわけで作文の課題を出すと 彼らはぶつぶつと不平を言います。 しかし 卒業後に感想を聞くと「あれはよかった。ぜひ後輩の学生に作文の課題を出してください」とほとんどが言います。
このメロウ倶楽部の期間限定のテーマとは関係なく 例によって、図書館で本を借りて、読んで、その感想文を提出しなさい という課題を今年も出したのです。 (読む本は何でもよい。図書館にある本ならジャンルを問わない)
その中の一人が漱石の「こころ」を読んで感想文を提出しました。 彼も高校の教科書で一部を読んだから、全部を読んでみようと思って読んだのでした。 提出された彼の感想文には二つの疑問が書かれてありました。 ・主人公の私は、偶然海で出会った先生をとても尊敬するようになるが、それが理解できない。人を尊敬するようになるにはちゃんとした理由があるはずなのに。運命的な出会いというものなのだろうが、それにしてもずいぶん簡単な設定だと思った。 ・中間部分で、主人公は父親が病気で死にそうになり故郷に帰るが、そこに東京にいる先生から遺書が届く。そして主人公は迷ったあげく父親をほったらかしにして東京に急行する。これはありえないことだと思う。どう考えても他人より親のほうが大切である。この後は先生の遺書が続いて、父と先生の安否は不明なのであるが、この主人公の感覚はおかしいと思う。 しかし、この学生も「こころ」はどんどん引きつけられて面白く読んだので、さすが漱石と感心したのです。 それは先生が主人公に断片的なキーワード的セリフ「私は淋しい」「あなたもあとでわかる」「親族といえども信用してはいけない」などを言うものだから、それがミステリー的な効果を上げ、あたかも推理小説を読むように読者は気になって読み続けることになっているわけです。
そこで 私はもう一度「こころ」を読み直してみました。
先生が印象的だったのは、海辺で先生が西洋人と話をしていたからもある。先生と話をするようになって次第に主人公は先生に惹かれていく。 鎌倉の海から帰ってしばらくして、主人公は先生に会いたくなって訪問するが二度とも会えない。 二度目に先生の奥さんから雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行っていると教えられ、墓地に行ったら先生が驚く。先生は人に見られたくない秘密があるらしい。 「私は淋しい人間です」と先生は若い主人公に何度も言う。 先生のところに何度も行って話することが重なると、主人公は大学の講義よりも先生の談話のほうが有益だと思うようになる。
故郷の母からの手紙で、父の腎臓の病気の経過が良くないから一度帰ってこいと書かれてある。先生から金を借りて実家に帰ってみると、父の病気は慢性であった。息子の顔を見て元気をとりもどしたらしい。そこで先生に報告の手紙を出す。 実家では、最初の歓迎のムードがみんな疲れたのか、しずかな扱いに変わっていったので、主人公は東京に帰りたくなった。もう少しいてもいいだろうという父の言葉にも予定は変更せず主人公は東京に戻る。 主人公は六月卒業のため卒業論文にとり組み、先生の所にも行かず、八重桜の散った頃やと論文から解放される。
卒業した主人公は故郷に帰る。父の病気は悪くなっていった。兄と妹も父の元にやってきた。父は大学を卒業した主人公が職に就かないと世間体が悪いから、先生に頼んで就職しろと言う。そこで主人公は先生に手紙を書いたが先生からは返事がなかった。 先生から会いたいから東京にこいという電報がきたが、父の状態から行かれないので、行かれないという電報をうち、その夜に先生に手紙を書く。
そして 先生から数日後に手紙が届く。具合の悪くなった父親の枕元にいながら、主人公は先生の手紙が気になる。ほとんど内容を読まないで字面だけをたどった主人公が最後の所に、「これをあなたが読んだときはもう私はこの世にいない」とあって、主人公は先生の遺書だと直感する。 母や兄に置き手紙を残し、主人公は東京行きの汽車に乗る。主人公は車中で先生の遺書をじっくり読んだ。そこでこの小説は終わっている。
たしかに読書感想文を書いた学生のいうように、危篤の父親を母や兄にあずけて、自分は東京に行こうとするのは普通ではないような気がする。それまで父親のそばで何度も話したりした主人公にすれば、東京に行っても会えないかもしれない先生の手紙をじっくり読むためには、父のそばを一旦離れないと気持ちの切り替えができなかったのだろう。 主人公のこれからの人生にとって、父親も大切ではあるが、父親の言葉が将来の生き方の何かヒントを与えてくれる可能性はほとんどなく、先生の手紙のほうが生きるための参考になることがありそうである。
この小説は上中下と別れていて、先生の最後の手紙が下全体になっている。 それは相当長い文章だから、これを手紙にすると大変な分量になるから、それは現実的ではないということに気がついた。そんな小説の原稿のような手紙を出すだろうか。まあ、これは小説なので、しかもその手紙がこの話のポイントだから、この最後の手紙がないと話はまとまらないのだが、それにしても長文であった。
ここで、学生の感想文書かれてあった二つの疑問に対する私の考えを書いておきましょう。 最初の見知らずの先生に惹かれていった主人公の態度は、私には理解できるのだが、この学生には理解できなかったらしい。それは個人個人の考え方の違いであろう。現代の学生の考え方が、大正や昭和の若者たちと変わってきたのだろうか。 いまの若い人がわかるように、先生の言葉を聞いた主人公が先生に惹かれていく様子を具体的に小説に描けば、読者として納得するであろうか。 次の疑問の、危篤の父親を置いて東京に向かうことであるが、これも個人個人で価値観が違うかもしれない。たいていは父が亡くなってから、先生のことを考えそうであるが、この主人公にすれば、父親との別れはある程度すんでいて、本当の臨終に立ち会うのは形式的なものにすぎず、先生にことが気になって思わず汽車に乗ってしまったというところなのであろう。
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