男爵さん、みなさん、こんにちは。(^_-)-☆
もちろん、スタンダールは小説家であって歴史家ではないのですからパルマに僧院があったからといって、そのままそこを小説の舞台にしたり、小説の中の出来事のすべてが、そこで起こったとは考えられません。
事実かれはパルマには住んだことがないようです。彼がミラノやローマ(の近郊、チヴィタ・ヴェッキア)に住んだのは確かですが、それは観光で行ったのでなく、最初は占領軍の軍人として行ったのですから、当時はパルマをパルムと呼んでいたとしてもすこしも可笑しくありません。ましてや読者は殆どがフランス人です。またパルマの町自身が、ファルネーゼ家がこの町に関わる(16世紀)以前から、つまり15世紀頃からすでに隣国フランスの支配下に置かれるなどのことがあり、フランスとのかかわりが昔から 非常に大きかったので、小説の舞台に選ばれた可能性もあるようです。
れいのウィッキーでも、パルマの修道院は「うちはあの小説とは関係ありません」と断った上で見学させている、と記述しています。また、ある書き手は、スタンダールの生地グルノーブルには、おなじ宗旨の教会があるので、それで思いついたのではとも云っています。
かれは、時代を16世紀から19世紀に置き換えただけでなく、登場人物の名前も勝手に変えています。ファブリツィオ・デル・ドンゴはアレッサンドロ・ファルネーゼ卿でしょうし、城砦司令官の娘クレリアは、ファルネーゼ卿の、実際の隠し子だといわれています。これは小説とおなじクレリアではなく、クレラールという似たような名前のようです。また、時間的相違もあります。スタンダールがミラノに進駐してきた時には、小説のファブリスの方はウオータールーに着いていて、ファブリスは竜騎兵ですが、スタンダールはそうではなかった、など。★
また誰でもきっと記憶に残っているはずの劇的なシーンを思い出します。ファルネーゼ塔に幽閉されたファブリスを城砦司令官の娘で、恋に落ちたクレリアが、三本の綱を渡して脱獄させるところです。
これも、ファルネーゼ卿が若い日、無頼の限りを尽して実際のローマはサン・タンジェロ城砦に投獄されたとき、かれの家と縁続きの、ある「男」が、ファルネーゼに脱獄用のぶっとい綱(ただし一本)を渡すことに成功したという史実があります。これは同書の巻末にも記載されています。
さて、イタリアが舞台と云うこともあって、イタリアでの翻訳は花盛り。ちょっと数えても20はありそうです。
面白いのはフランスには「ファブリスとクレリアのバラード」なんぞという、この物語に触発されて作られた、シャンソンまであるんですね。
あっしはスタンダールと云うフランス語らしからぬ響きを持つ筆名を、昔からなにか変に思ってはいましたたが、ふかく追求することなく、とうとうこの年になってしまいました。(-_-;)
これは実はドイツの偉大な美術史家、ヨーハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの生地シュテンダルにちなんだものだったんですね。イタリア絵画史などの著書もあるスタンダール、この学者を尊敬していたんでしょうか。
スタンダールも、さすが書肆の圧力には屈したらしく、さいごの300ページほどを削らされました。そこで、かれはその部分をたったの2ページに圧縮した由。この圧縮度、今風に言えば、jpegもマッツァオ。(@_@;)というところでしょうか。
>1839年のイタリアの政治状況を風刺するかのような小説を52日間で書き 上げた。それが「パルムの僧院」であった。
と男爵さんは書かれています。べつに間違ってはいませんが、これは「口述筆記」です。だれ一人寄せ付けず、助手と一部屋に閉じこもって一言一言しゃべっては書き取らせた、この優秀な助手がいなければ、世界的な傑作も日の目を見なかったことでしょう。この筆記には、きっと優秀な助手が選ばれたことでしょう。車いすで仕事をした晩年のルノアールのように、手が自由に使えなくなっていたからです。
★この竜騎兵だの、猟騎兵だの軽騎兵だの、胸甲騎兵だの、あっしら日本人の読者には、よく分かりにくいですね。(-_-;)
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