[掲示板へもどる]
一括表示

[No.60] バルムの僧院 投稿者:男爵  投稿日:2010/04/27(Tue) 10:54
[関連記事

同じ著者の「赤と黒」は昼の話で、「パルムの僧院」は夜の舞台が印象的であると書いてある本がありました。

美男の若い主人公は血気にはやって、政治的に危険な行動に出る。
そして囚われてしまう。
彼の命は明日がないかもしれない。
絶体絶命のピンチなのに、若い男は離れた決して手の届かない(おそらく声も十分には届かない)ところにいる若い娘に恋をしてしまう。
そして、困ったとき人間は知恵を働かせて、巧みに娘に合図を送り、コミュニケーションに成功する。

いっぽう
彼の身を心配する人たちがお金を使って苦労の末
牢獄から脱出させる。
自由の身になった彼は幸せになったはずだったが
あの囚われのときが一番幸せだったと言って周りを当惑させる。

人間の複雑さ、おろかさ、すばらしさを考えさせられた小説でありました。


[No.61] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/28(Wed) 21:46
[関連記事

  男爵さん、みなさん、こんばんは。(^_-)-☆

> 同じ著者の「赤と黒」は昼の話で、「パルムの僧院」は夜の舞台が印象的であると書いてある本がありました。

「パルムの僧院」というから分かりにくい。今なら「パルマの修道院」とか云った方が分かりがいいのでは?此処で初めて「あっ、そうなの?パルムってイタリアだったの、と云うことになります。パルマなら知ってる。生ハムで有名、それにサッカーの中田が一時プレーしてた所だよな、オレたぶん、一回くらいは行ってる筈だよってな具合になるはず。

 ご存じでしょうか?むかし岩波文庫でトーマス・マンの「ベニスに死す」という作品が出ました。ところが今では「ヴェネツィアに死す」(光文社古典新訳文庫)ですし昔あっしらの馴染んだ「ピノチオ」は、今では「ピノッキオ」と名を変えています。

 どっちでもいいじゃないかと云う人にあっしは云いたいのです。じゃあ、漱石の「倫敦塔」は「ロンドレス塔」や「ロンドラ塔」でもいいのか。

 シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は「フリオ・セサール」、ミュンヘン銀行は「モナコ銀行」、ホワイトハウスは「カサブランカ」でいいのか、と言いたい。


[No.62] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/29(Thu) 08:48
[関連記事

唐辛子 紋次郎さん  こんにちは

Der Tod in Venedig
 現地の都市名ならヴェネツィア(?)

私も気になるのは
オーストリアの首都ウィーンです。現地語ではヴィーンです。
ドイツのハノーバーもドイツの駅で切符を買うときはハノーファーと言わないと通じない。

それから香港
現地でホンコンとよんでるのに、北京語ではシャンガンと読みます。


[No.63] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/29(Thu) 10:07
[関連記事

  男爵さん、みなさん、こんにちは。

> Der Tod in Venedig
>  現地の都市名ならヴェネツィア(?)

 現在と云うか、光文社版では「ヴェネツィア」。光文社ばかりでなく、旅行社のパンフでも最近は「ヴェネツィア」が増えています。新聞などは相変わらず、「ヴェネチア・ビエンナーレ」などとやっていますが…。もちろんドイツでは相変わらずVenedigでしょうが、ここ日本では、しょっちゅう変わるようです。(-_-;)

> 私も気になるのは
> オーストリアの首都ウィーンです。現地語ではヴィーンです。
> ドイツのハノーバーもドイツの駅で切符を買うときはハノーファーと言わないと通じない。

> それから香港
> 現地でホンコンとよんでるのに、北京語ではシャンガンと読みます。

 可笑しかったのは「ホンコン」。エアフランスに乗れば、機内のアナウンスではかならず「オンコン」と云いますからネ。(^_-)-☆

 日本在住のjapanese speakingのラテン系の人と話してると、2〜3年いるような人でも「そうですね。オントにおかしいですね」てなことを云います。(^_-)-☆


[No.64] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/29(Thu) 18:33
[関連記事

唐辛子 紋次郎さん  こんばんは

> 「パルムの僧院」というから分かりにくい。今なら「パルマの修道院」とか云った方が分かりがいいのでは?

本を借りてきました。
La Chartreuse de Parme
生島遼一が解説の中で述べています。
主人公が囚われた塔の牢の窓から眺める雪につつまれた美しい山脈は
この町ではなく、作者の愛したミラノでの風景だった。
この小説の大部分の舞台となったファルネーゼ塔はこの町には存在せず
作者がローマのサンタンジェロ城塞のかたちを心に描きつつ
小説の中に象徴的に転置したものである。

旅名人ブックス57 ポローニャ/パルマ/ポー川流域 日経BP社
これも借りてきました。
パルマ 日本人にも馴染みの深い芸術と音楽の古都
1545年 ファルネーゼ家出身の教皇パウルス三世は息子にパルマの領地を与えた。その後、パルマ公国が誕生した。
パウルス三世については「ファルネーゼ家興隆の起源」という古い本に書かれている。
青年時代はかなりの放蕩者であった。それがローマ法王にまでなった。
ちなみに、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」を依頼したのは、このパウルス三世であった。
時代は下り、この本に興味を持ったイタリア通のフランス人がいた。スタンダールである。
彼はこの本の内容に影響を受け、1839年のイタリアの政治状況を風刺するかのような小説を52日間で書き上げた。それが「パルムの僧院」であった。

1731年 ファルネーゼ家の後継者が絶えた。
その後、最終的にスペイン王子のブルボン家フィリッポに公国が与えられた。
だが、19世紀の一時期だけ、マリー・ルイーズが統治した。
彼女は神聖ローマ帝国の最後の皇帝フランツ二世の長女であり、フランス皇帝ナポレオンの二番目の妻であった。
(ナポレオンが離婚した最初の妻ジョゼフィーヌについては後で書くかもしれません)
ナポレオンが失脚してから、彼女はシェーブルン宮殿に戻り、二度とナポレオンに会うことはなかった。
ナポレオン後のヨーロッパではウィーン会議が開かれ、この関でパルマ公国はマリー・ルイーズに与えることが決まった。
彼女は寛大だったので、パルマの人々は親しみを持ったという。彼女の統治は30年あまり続いた。
人々は後々まで「愛される皇妃」として、マリー・ルイーズを語り継いだ。
彼女は新しい王立劇場も建設した。それが現在のレージョ劇場である。


[No.65] Re: バルムの僧院 投稿者:   投稿日:2010/04/30(Fri) 14:38
[関連記事

  男爵さん、みなさん、こんにちは。(^_-)-☆ 

 もちろん、スタンダールは小説家であって歴史家ではないのですからパルマに僧院があったからといって、そのままそこを小説の舞台にしたり、小説の中の出来事のすべてが、そこで起こったとは考えられません。

 事実かれはパルマには住んだことがないようです。彼がミラノやローマ(の近郊、チヴィタ・ヴェッキア)に住んだのは確かですが、それは観光で行ったのでなく、最初は占領軍の軍人として行ったのですから、当時はパルマをパルムと呼んでいたとしてもすこしも可笑しくありません。ましてや読者は殆どがフランス人です。またパルマの町自身が、ファルネーゼ家がこの町に関わる(16世紀)以前から、つまり15世紀頃からすでに隣国フランスの支配下に置かれるなどのことがあり、フランスとのかかわりが昔から
非常に大きかったので、小説の舞台に選ばれた可能性もあるようです。

 れいのウィッキーでも、パルマの修道院は「うちはあの小説とは関係ありません」と断った上で見学させている、と記述しています。また、ある書き手は、スタンダールの生地グルノーブルには、おなじ宗旨の教会があるので、それで思いついたのではとも云っています。

 かれは、時代を16世紀から19世紀に置き換えただけでなく、登場人物の名前も勝手に変えています。ファブリツィオ・デル・ドンゴはアレッサンドロ・ファルネーゼ卿でしょうし、城砦司令官の娘クレリアは、ファルネーゼ卿の、実際の隠し子だといわれています。これは小説とおなじクレリアではなく、クレラールという似たような名前のようです。また、時間的相違もあります。スタンダールがミラノに進駐してきた時には、小説のファブリスの方はウオータールーに着いていて、ファブリスは竜騎兵ですが、スタンダールはそうではなかった、など。★

 また誰でもきっと記憶に残っているはずの劇的なシーンを思い出します。ファルネーゼ塔に幽閉されたファブリスを城砦司令官の娘で、恋に落ちたクレリアが、三本の綱を渡して脱獄させるところです。

 これも、ファルネーゼ卿が若い日、無頼の限りを尽して実際のローマはサン・タンジェロ城砦に投獄されたとき、かれの家と縁続きの、ある「男」が、ファルネーゼに脱獄用のぶっとい綱(ただし一本)を渡すことに成功したという史実があります。これは同書の巻末にも記載されています。

 さて、イタリアが舞台と云うこともあって、イタリアでの翻訳は花盛り。ちょっと数えても20はありそうです。

 面白いのはフランスには「ファブリスとクレリアのバラード」なんぞという、この物語に触発されて作られた、シャンソンまであるんですね。

 あっしはスタンダールと云うフランス語らしからぬ響きを持つ筆名を、昔からなにか変に思ってはいましたたが、ふかく追求することなく、とうとうこの年になってしまいました。(-_-;)

 これは実はドイツの偉大な美術史家、ヨーハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの生地シュテンダルにちなんだものだったんですね。イタリア絵画史などの著書もあるスタンダール、この学者を尊敬していたんでしょうか。

 スタンダールも、さすが書肆の圧力には屈したらしく、さいごの300ページほどを削らされました。そこで、かれはその部分をたったの2ページに圧縮した由。この圧縮度、今風に言えば、jpegもマッツァオ。(@_@;)というところでしょうか。

>1839年のイタリアの政治状況を風刺するかのような小説を52日間で書き
上げた。それが「パルムの僧院」であった。

 と男爵さんは書かれています。べつに間違ってはいませんが、これは「口述筆記」です。だれ一人寄せ付けず、助手と一部屋に閉じこもって一言一言しゃべっては書き取らせた、この優秀な助手がいなければ、世界的な傑作も日の目を見なかったことでしょう。この筆記には、きっと優秀な助手が選ばれたことでしょう。車いすで仕事をした晩年のルノアールのように、手が自由に使えなくなっていたからです。

★この竜騎兵だの、猟騎兵だの軽騎兵だの、胸甲騎兵だの、あっしら日本人の読者には、よく分かりにくいですね。(-_-;)