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[No.110] 曽野綾子:誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/19(Wed) 17:13
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期間限定のこの会議室
もう一冊紹介します。
 曽野綾子の「誰のために愛するか」
この本の出た頃と同じ時期
やはり若い女性の間に評判になったのが
 三浦綾子の「道ありき」
でしたね。

私は他に石垣綾子の本も読んでいます。
いわば三人の綾子
このメロウ倶楽部にも、綾子さんはいらっしゃいます。

さて
石垣綾子はラジラルで身勝手な人という印象。
戦前当時の閉鎖的な日本を嫌って恋人を残して一人アメリカに渡る。
そして生涯の伴侶となる石垣栄太郎と出会い結婚する。
ところが、そのとき栄太郎は結婚していたので、綾子は栄太郎のアメリカ人の妻から夫を奪ったことになる。
 (話は脱線しますが、今年の春に韓国旅行をしたとき、与謝野晶子訳の源氏物語のことを話したら、某日本人女性から、与謝野晶子は人の夫を奪った人だからと批判的な意見を聞きました。瀬戸内寂聴訳の源氏のことも話したので、こちら寂聴も同様に酷評されました。しかし、こういう男女の問題を体験した人の方が、源氏物語の理解があるかもしれません)

三浦綾子は戦前は小学校教師だった(実は私の父親は同僚だったので、あの綾子がそんな小説を書いたとはと感想を言っていたことがあります)。
終戦になって、教科書に墨を塗らせたとき、戦前の教育が間違っていたのか、ともかくその日から百八十度転換するということに絶えられなかったらしい。
今までが間違っていたのか、今までが正しくこれからそうでなくなるのか、それはどちらでも三浦綾子にとっては、教師としての人生を続ける気持ちはなくなってしまった。
ということで人生いかに生きるべきかを悩み、結核になったのもあって、一時は自暴自棄の生活を送るが、命の恩人に救われ、その恩人は世を去り、自分が残された人生を神のしもべとしておくる決心をする。

というのは前座で、この曽野綾子の本が本当のテーマです。
人のことを責める割には自己中心的な印象の石垣綾子
病気をなんとか克服し、夫の愛と信仰に生きた三浦綾子
それらにくらべると
曽野綾子は結婚して息子もいるので、普通の家庭の主婦として、常識的な考え方を身につけています。

以下に印象に残った文章の一部を紹介します。

私は娘時代に、ボーイフレンドたちと箱根にキャンプに行ったことがある。折あしくその夜、雨が降ってきた。すると一人の青年はレインコートを取り出して着たし、もう一人はシャツを脱いだ。
この二人は、それぞれそれらしい出世の仕方をしている。レインコートの青年は、役人として緻密な仕事をしているし、シャツを脱いだ青年は商社マンになって、アフリカの未開発民族に日本製の自動車を売っている。
あの箱根の湖畔の夕方のひとつの光景は、驚くほどの正確さで二人の青年の未来を暗示した。
二人の青年はともに賢かったのである。その先は、どちらの性格を好むかというだけであろう。

私は、いわゆる名妓といわれているような人から
「やっぱり、いいのは地位とお金と名誉だわねえ」
などと言われると、正直でいいと思うのだけど、やはり長時間、この説は正しいと考えていようとすると、だいぶ無理がきてくたびれてしまう。本来ならこういう考えは、世間ずれした男女のものであった。それが今では若い娘さんにまでこのような考え方が入ってきているらしい。
お金をもうけるのは、貧乏から解放されるためだ。千円を落としたために、どせうてんしてしまい、数日間考えごとができなくなった、というようなわびしさから自分を自由にするためだ。
出世がいいとすれば、自分はダメな奴だったんだと思うひがみから解き放たれるためである。自分に自信がある人ほど威張ることはない。つまりそこでも、人間は自由にふるまえるからである。
そして、名誉をも得た方がいいとすれば、それが人間にとって、実は予想外にむなしいものであることを知って本来の慎ましい人間の感覚を取り戻すためである。

本当にこの人と結婚すべきだろうか、という疑いを持ち続けたままで結婚する娘は多い。
初めはいい人のように思えていたけれど、つき合っているうちに、彼の不実さや、癖がいやになったという人がいる。
それでもなお結婚すべきか。
私は長い間、おやめなさい、と答え続けてきた。少しでも納得のいかない点があったら、結婚式が一週間後に迫っていようとも、おやめなさい、と言いつづけてきた。
キリスト教の国で、神父や牧師が、結婚式のとき花婿と花嫁に
「あなたはこの○○を、あなたと妻(夫)としますか」
と聞くのは、格好をつけるためだけではないのである。
西洋にも無理強いの結婚があって、そのような不幸な目に若い人をあわせないために、教会は最後のチェックをするのである。

結婚は妥協しないほうがいい。相手の欠点が楽しいと思えなければ、我慢して結婚しないほうがいい。
 しかし、それがまた必ずしも正しくはない。たいして好きでなくても結婚して何十年か経ってみると、二人はいい夫婦だったと思う、という人がいる。
 こういう夫婦の場合、必ずといっていいほど、男は我慢強く、誠実で、しかも妻に寛大な人である。
 男が我慢が悪く、不誠実で、妻に口やかましい人は、ほとんどこの結婚の不思議な自覚に到達していない。


[No.111] Re: 曽野綾子:誰のために愛するか 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/19(Wed) 21:14
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> 以下に印象に残った文章の一部を紹介します。

追加です。

旧約聖書の伝道の書には、すばらしい一節がある。
  天が下のすべてのことには季節があり すべてのわざには時がある。
  生まるるに時があり 死ぬるに時があり
  植えるに時があり 植えたものを抜くに時があり
  殺すに時があり いやすに時があり
  こわすに時があり 建てるに時があり
  泣くに時があり 笑うに時があり
  悲しむに時があり 踊るに時があり
  石を投げるに時があり 石を集めるに時があり
  抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり
  捜すに時があり 失うに時があり
  保つに時があり 捨てるに時があり
  裂くに時があり 縫うに時があり
  黙るに時があり 語るに時があり
  愛するに時があり 憎むに時があり
  戦うに時があり 和らぐに時がある
もう3年遅くめぐり会っていれば、あるいは結婚したかもしれない相手と、少しばかり早く会いすぎることもある。しかし同じ梅の実でも未熟なものは、危険なのだ。同じ相手でも、時が来ぬ前はうまくいかない。道標は暗い夜道を歩くものの心をとらえるが、そこへ向かって突進したらやはり飛行機でも船でも航路を踏みはずす。道標は静かに見送って送らねばならないのである。それがいかに辛くとも。

女性は、男と比べて運動能力においても、知性においても劣っていると私は思えるのだが、たったひとつ、優れているところがあるとすれば、それは、愛するものを盲目的に信じることである。
女性は、本当は優しくもない。デリケートでもない。残忍なことをできるのは、男より女である。しかし、女は自分の夫や子どもをいったん信じたとなると、とことんまで、理性の力などかりずに、自分の信じるものを支持することができるのである。
理性的であることのみが、世間的にみて、知的であるかのようなことをよく言われるが、たぶんそんなことはない。ものごとをなし遂げてきたのは、一部の理性的な計算とあとは狂的な執着なのである。
たとえば作家にとって、何よりも大切なのは、自己に対する厳しさではなく、度はずれのナルシズムとひがみ根性かもしれないのだ。作家が冷静であり、理性的であることなど何ら創造的な意味を持ちはしない。
それと同様に、家庭生活においても、大切なのは批判者よりも、支持者になることである。

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梅の実はそのまま食べると危険  梅干しにしてから食べましょう。
芸術家は自分の作品は何よりも愛して、徹底的なナルシズムにとらわれるべきである。
芸術は理性ではなく狂気なのだ。
そのくらいの覚悟で、孤独で必死になって自己にとらわれないと、芽が出ない。