[No.111]
Re: 曽野綾子:誰のために愛するか
投稿者:男爵
投稿日:2010/05/19(Wed) 21:14
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> 以下に印象に残った文章の一部を紹介します。
追加です。
旧約聖書の伝道の書には、すばらしい一節がある。
天が下のすべてのことには季節があり すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり 死ぬるに時があり
植えるに時があり 植えたものを抜くに時があり
殺すに時があり いやすに時があり
こわすに時があり 建てるに時があり
泣くに時があり 笑うに時があり
悲しむに時があり 踊るに時があり
石を投げるに時があり 石を集めるに時があり
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり
捜すに時があり 失うに時があり
保つに時があり 捨てるに時があり
裂くに時があり 縫うに時があり
黙るに時があり 語るに時があり
愛するに時があり 憎むに時があり
戦うに時があり 和らぐに時がある
もう3年遅くめぐり会っていれば、あるいは結婚したかもしれない相手と、少しばかり早く会いすぎることもある。しかし同じ梅の実でも未熟なものは、危険なのだ。同じ相手でも、時が来ぬ前はうまくいかない。道標は暗い夜道を歩くものの心をとらえるが、そこへ向かって突進したらやはり飛行機でも船でも航路を踏みはずす。道標は静かに見送って送らねばならないのである。それがいかに辛くとも。
女性は、男と比べて運動能力においても、知性においても劣っていると私は思えるのだが、たったひとつ、優れているところがあるとすれば、それは、愛するものを盲目的に信じることである。
女性は、本当は優しくもない。デリケートでもない。残忍なことをできるのは、男より女である。しかし、女は自分の夫や子どもをいったん信じたとなると、とことんまで、理性の力などかりずに、自分の信じるものを支持することができるのである。
理性的であることのみが、世間的にみて、知的であるかのようなことをよく言われるが、たぶんそんなことはない。ものごとをなし遂げてきたのは、一部の理性的な計算とあとは狂的な執着なのである。
たとえば作家にとって、何よりも大切なのは、自己に対する厳しさではなく、度はずれのナルシズムとひがみ根性かもしれないのだ。作家が冷静であり、理性的であることなど何ら創造的な意味を持ちはしない。
それと同様に、家庭生活においても、大切なのは批判者よりも、支持者になることである。
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梅の実はそのまま食べると危険 梅干しにしてから食べましょう。
芸術家は自分の作品は何よりも愛して、徹底的なナルシズムにとらわれるべきである。
芸術は理性ではなく狂気なのだ。
そのくらいの覚悟で、孤独で必死になって自己にとらわれないと、芽が出ない。