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[No.1132] 『かなりや』 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/10(Tue) 15:16
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「かなりや」は、日本の童謡。作詞は西條八十、作曲は成田為三。
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/kanariya.html

 大正7年の秋、不忍池畔にあった上野倶楽部というアパートの一室を仕事部屋にしていた西條八十があたりを逍遥しているうちに詩情を得てつくられた詩。

「赤い鳥」の主宰である鈴木三重吉は、掲載する作品を探していた際に、詩人の灰野庄平から八十の存在を教えられた。
 当時の八十が同人誌「仮面」に発表した詩「鈴の音」は評判で、八十の名を有名にしていた。

 西條八十によると、自分に関与しないところで第三者によって曲があてられ、学生たちの間で頻繁に歌われていた。
 そこで、鈴木は、神田の出版社の2階にある八十の自宅を直接訪れ、「新しい童謡をあなたにかいていただきたい」と依頼したのである。

さて
いちおう
歌詞に出てくる海は、八十が娘を抱いて散歩した不忍池ということになっていますが
童謡史研究者の藤田圭雄は
八十が学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ、と書いています。
藤田の父は東京美術学校の校長をした人で、明治44年に
八十らと一緒に安田海岸を歩いたことを日記に書いていて
そのことを八十に手紙を書いたら、驚いたこと、確かに毎年安田海岸に行っていたこと
などを返事で書いてきたという。
そして、八十はほかにも一家で片瀬にも行ったと書いてあった。

よって、藤田圭雄は
「かなりや」のイメージには、上野不忍池や房州海岸や伊豆半島の片瀬があったのだろうと書いている。
  筒井清忠:西條八十、中央公論新社


文学作品や芸術作品はそれが作られた
特定を規定できるときもあれば、複数の場所を推定する場合もあるということでしょう。


[No.1133] Re: 『かなりや』 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/10(Tue) 15:36
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> 「赤い鳥」の主宰である鈴木三重吉は、掲載する作品を探していた際に、詩人の灰野庄平から八十の存在を教えられた。
>  当時の八十が同人誌「仮面」に発表した詩「鈴の音」は評判で、八十の名を有名にしていた。
>
>  西條八十によると、自分に関与しないところで第三者によって曲があてられ、学生たちの間で頻繁に歌われていた。
>  そこで、鈴木は、神田の出版社の2階にある八十の自宅を直接訪れ、「新しい童謡をあなたにかいていただきたい」と依頼したのである。

ここには
ラジオ深夜便で
王様の馬(金の鈴)  奥田良三 訳詞 西條八十 作詞 Viktor Leon(ヴィクトル・レオン) 作曲 Franz Lehar(フランツ・レハール) 昭和9年 1934
ということが書かれてあります。
http://radioshinyabin.blog71.fc2.com/blog-category-74.html


西條八十の本を読むと
「鈴の音」は評判で、自分に関与しないところで第三者によって曲があてられ、学生たちの間で頻繁に歌われていた
と書いてありますが
訳詩したとはどこにも書いていなかったと思うのですが。
時間があったら調べてみたいですね。

  「鈴の音」
  王様の馬の
  黄金(きん)の鈴
  ちんからかんと
  鳴りわたる
  日はあたたかに
  風もなく
  七つの峠が
  晴れわたる

>  筒井清忠:西條八十、中央公論新社


[No.1162] 成田為三: 『浜辺の歌』 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/12(Thu) 07:01
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> 「かなりや」は、日本の童謡。作詞は西條八十、作曲は成田為三。
> http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/kanariya.html

成田為三といえば浜辺の歌
http://www.youtube.com/watch?v=oKO0aDFrZGM

成田為三は北秋田の山育ち
なのに何をイメージして浜辺の歌を作曲したか。
と思ったが、出身地にある「浜辺の歌音楽館」を訪れたとき
近くの米内沢のイメージだったのではなかろうかと思った。
もっとも秋田師範に進んだのだから、秋田の日本海の海岸は知っていた。
http://www.akitafan.com/sightseeing/detail.html?data_id=1590


[No.1163] 成田為三: 『ほろほろと』 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/12(Thu) 07:21
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成田為三は北秋田の山育ち

行基の歌に成田為三が曲をつけた。
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/horo_horo.htm
中学校の音楽の教科書に出ていた。
この曲を聴いたとき
山で育った人だなあと思いました。

秋田の山で育った成田為三は
秋田の師範学校を出てから
芸大へ進み
ドイツ留学をはたしてから
名曲をつぎつぎ作っていったのです。


[No.1184] 西條八十「旅の夜風」 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/12(Thu) 19:33
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「旅の夜風」は
松竹映画「愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした歌であった。

すでに別の主題歌ができていたのだが
映画の音楽監督がイメージに合わないと思い
西條八十に依頼したのだった。

映画では
ヒロインが新橋駅にかけつけた時
津村浩三を乗せた列車がホームを離れていくシーンに
この主題歌が流れ
おおいに盛り上がった。

この歌のタイトルが「愛染かつら」ではなく「旅の夜風」であるのは
そういう場面に使われることを意図してつくられたからである。

懐メロカラオケ 「旅の夜風」 原曲 ♪霧島昇 ミス・コロムビア
http://www.youtube.com/watch?v=TpGdxk7z_y0

感傷的な歌が検閲を通るため
西條八十は工夫した。
 「男柳」としたので、検閲官も「柳が泣いているのなら、まあいいでしょう」と苦笑したという。

土浦の海軍航空隊の原田中佐が予科練の卒業式に、「旅の夜風」の一番を歌い
驚いた学生達に「諸君たちはまだ若い。これから戦場に向かうにあたってもまだこの世にたくさん未練があるだろう。まだ見たい美しい花もあるだろう。同時に行く手をとざす黒い戦雲をおそろしく思うであろう。しかしその未練の花を踏みにじり、おそろしい暗雲を断然踏みこえてゆけ。そこに日本男児の生きる道があるのだ」と言ったという。
(西條八十と古関裕而が依頼されて「若鷲の歌」をつくるため土浦に行ったとき聞いた話)

この歌を歌った二人は結婚した。


[No.1202] 西條八十「この世の花」 投稿者:男爵  投稿日:2012/04/13(Fri) 10:10
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「この世の花」は、雑誌「明星」に連載された北条誠の小説で
また、1955年(昭和30年)公開の映画および島倉千代子が歌った同映画の主題歌である。

この世の花 島倉千代子
http://www.youtube.com/watch?v=ajlENYvyG1U
  作詞:西條八十、作曲:万城目正


西條八十は中学三年の頃
近くに住んでいた軍医の娘かおると交際をしていた。

三年後
18歳になったかおるは西條八十に結婚を迫った。
さもなくば
彼女は海軍中将の従兄のところに嫁がなければならない。

しかし
中学生の西條八十は、海のものとも山のものともわからぬ身
二人は散歩の末、悲しく別れた。
淡い初恋とその破局

それから四十数年後に
童謡作家の島田忠夫西條八十の家を訪れた際に
「先生は、かおるという名の女性をご存じですか」と聞いたという。

そして
島田は自分の親戚に呉の鎮守府司令長官がいて
その夫人の名は、かおるということであり
島田が先夜にその長官宅に泊まった時、夜中に老夫妻の夫婦喧嘩の声を聞いた
ということを話した。

島田が妙に思ったのは
老夫人が二、三度大声で「だから私は八十さんのところへゆけばよかった」と
繰り返したことだった。
八十という名前はめったにないので、もしやと思ったが
西條八十から、かおるという女性を知っていると聞いて
納得したと語ったというのであった。

島田が帰ったあと
西條八十はしばらく書斎で独り
約四十余年相見ぬ彼女を想い、人間の恋情のふしぎさを思ったという。
 十代の淡い、夢のような恋の相手の名を、白髪の老婆になっても口にする女心

島倉千代子の歌う「この世の花」は
この西條八十の初恋体験を女性の側から描いたものであることは
一目瞭然であろう。

>  筒井清忠:西條八十、中央公論新社

詩人西條八十は自分の悲しい体験や
人々の日々の喜怒哀楽を観察していて
それらを巧みに詩にしたのである。
人生の喜びや悲しみを体験しないと、すばらし詩は書けないのだろう。