[掲示板へもどる]
一括表示

[No.105] 『教錬』などに明け暮れる日々 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2013/11/15(Fri) 15:45
[関連記事

『教錬』などに明け暮れる日々
画像サイズ: 480×346 (50kB)
 疎開し、兵庫県の中学に移ってからは、遠足、学芸会、展覧会、運動会といったケッコウなものは全くなく、どころか、勉強さえほとんどなく、天気さえよければ、無報酬の炭焼き、農家の手伝い、兵器工場勤務などに明け暮れていました。

 この写真は、たぶん、学校の敷地ではないはずなので、教練か、それに類するものだったのでしょう。

 学校のちかくに、段ヶ峰と云う山があり、その麓のはらっぱで、よく竹槍訓練をやりました。『匍匐前進』とか『傘型散開』など、むずかしい言葉はこのとき、覚えました。

 当時は、中学では、どこでも『配属将校』と称する軍人が、かならず配属されており、こうした行事には、かならず参加していました。たぶん、若いのは大抵、兵隊に取られて軍隊に入っていたので、回されてくるのは、みんな古手の軍人だったのだと思います。


[No.106] Re: 『教錬』などに明け暮れる日々 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/15(Fri) 17:43
[関連記事

唐辛子紋次郎さん

>  疎開し、兵庫県の中学に移ってからは、遠足、学芸会、展覧会、運動会といったケッコウなものは全くなく、どころか、勉強さえほとんどなく、天気さえよければ、無報酬の炭焼き、農家の手伝い、兵器工場勤務などに明け暮れていました。

遠足も運動会もなく、勉強さえほとんどなく
兵器工場勤務や生産活動に明け暮れていたとは
本などに書いてありますが
唐辛子紋次郎さんの文章で一層真実に聞こえます。

>  この写真は、たぶん、学校の敷地ではないはずなので、教練か、それに類するものだったのでしょう。
>
>  学校のちかくに、段ヶ峰と云う山があり、その麓のはらっぱで、よく竹槍訓練をやりました。『匍匐前進』とか『傘型散開』など、むずかしい言葉はこのとき、覚えました。

大変でしたね。


[No.107] Re: 『教錬』などに明け暮れる日々 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2013/11/15(Fri) 22:03
[関連記事

  男爵さん、みなさん、こんばんは。

> >  疎開し、兵庫県の中学に移ってからは、遠足、学芸会、展覧会、運動会といったケッコウなものは全くなく、どころか、勉強さえほとんどなく、天気さえよければ、無報酬の炭焼き、農家の手伝い、兵器工場勤務などに明け暮れていました。

> 遠足も運動会もなく、勉強さえほとんどなく
> 兵器工場勤務や生産活動に明け暮れていたとは
> 本などに書いてありますが
> 唐辛子紋次郎さんの文章で一層真実に聞こえます。

> >  この写真は、たぶん、学校の敷地ではないはずなので、教練か、それに類するものだったのでしょう。

> >  学校のちかくに、段ヶ峰と云う山があり、その麓のはらっぱで、よく竹槍訓練をやりました。『匍匐前進』とか『傘型散開』など、むずかしい言葉はこのとき、覚えました。

> 大変でしたね。

 じっさいに、その『竹槍訓練』をやらされました。弱ったのは、先生の「あすはみな、竹槍を持って登校するように」という言葉でした。

 当時東京から疎開してきたばかりで西も東も分からず、どこへ行けばその竹が手に入るのか途方に暮れ、文字通り、泣く思いでした。でも、さいわい、ある友人が何とかして呉れましたので、助かりました。


[No.108] Re: 『教錬』などに明け暮れる日々 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/16(Sat) 05:15
[関連記事

唐辛子紋次郎さん、みなさん、こんばんは。

> > >  学校のちかくに、段ヶ峰と云う山があり、その麓のはらっぱで、よく竹槍訓練をやりました。『匍匐前進』とか『傘型散開』など、むずかしい言葉はこのとき、覚えました。
>
> > 大変でしたね。
>
>  じっさいに、その『竹槍訓練』をやらされました。弱ったのは、先生の「あすはみな、竹槍を持って登校するように」という言葉でした。
>
>  当時東京から疎開してきたばかりで西も東も分からず、どこへ行けばその竹が手に入るのか途方に暮れ、文字通り、泣く思いでした。でも、さいわい、ある友人が何とかして呉れましたので、助かりました。

竹の調達からやらされたんですか。

それは大変。

竹のない北東北や北海道ではこれまた大変。
先生も生徒もどうしたんでしょう。