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[No.159] 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 10:41
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地元の放送局が呼びかけて
たくさんの体験手記が集められ
数冊の本が出版されました。

引き上げてきたときの体験談が多いのですが
当時の子供の学校生活のことを
書いたものがありますから一部を紹介します。

昭和18年に小学校に入学した。
入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

初めて学校に行った著者はびっくりして、なぜか泣いてしまった。
自分の下駄箱と机を見つけるのがやっとだった。

自分の名前も書けず、読めずだったが
当時はそういう子供はほかにもいた。
あのころは、躾も勉強もみてもらえない生活環境であった。

小学三年生ころまでは、さっぱり勉強せず遊んでばかりいた。
当時は、勉強はどうでもよく、病気さえしなければよかったのだ。

この時代を支配したのは、食糧難であり、物不足であり、超インフレであった。


[No.160] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 12:31
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> 昭和18年に小学校に入学した。
> 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。
>
> 初めて学校に行った著者はびっくりして、なぜか泣いてしまった。
> 自分の下駄箱と机を見つけるのがやっとだった。
>
> 自分の名前も書けず、読めずだったが
> 当時はそういう子供はほかにもいた。

いつかの朝、女の先生が遅刻して、学校の玄関で校長先生にさんざん叱られ
泣いていたのを見た。
女の先生も若かったが、当時は校長の権力は絶対だった、

小学校五年生の頃、図工と小説のお話の得意な先生がいて大変面白かった。
この先生が、いつかの朝、教室のストーブでハンゴウを使って白米を炊き
サンマを焼いて、すごくうまそうに食べていたのを見た。
うまそうにと思ったのは、著者の家でも米だけの白飯が食べられない時だったから。

その頃、学校の暖房は全部ストーブで、薪を燃料にしていた。

北海道では石炭ストーブだったが、やはりストーブでアルミの弁当箱を載せて
暖めたりした。
ちょうど津軽鉄道のストーブ列車でするめをあぶるようなものである。


[No.161] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 13:04
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> > 昭和18年に小学校に入学した。
> > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

学校には疎開していた生徒が数人いた。
私たちも食べ物に困ったが、疎開者はもっとひどく、学校へ弁当を持ってこられず
いつもボンヤリして青白い顔をしていた。
今でも、疎開してきた生徒のことが思い出される。

いつかの正月、餅を学校へ持って行き、机に入れて置いたが
それがなくなり騒いだことがあった。

食糧難は厳しさを加え、白飯に増量材が利用された。
大根、大豆、麦、山菜、海草等であるが、この増量材は糧(かて)と呼ばれ
これを加えた糧飯を食べた。

来る日も来る日も、夕飯は米粒無しである。

小麦粉とカボチャのひっつみ(すいとん)を食べ続けた。
それでも不思議と身体は丈夫だったように思う。

小作百姓が多かったが、農家でも配給を受けなければ食べられなかった。
農業生産力は今とは比較にならない程低かった。

戦時は、学校のグランドが全部畑にされ、大根、ソバ、ジャガイモ等が栽培された。


[No.163] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 14:22
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> > > 昭和18年に小学校に入学した。
> > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

小学校の高学年の生徒は、中学生と一緒になって
勤労作業をしなければならなくなった。

この著者の作業は、山からの木出し作業であった。
太さ20センチ前後、長さ6メートルくらいの長木を両脇に抱えて運搬するのである。

5キロもの山道、晩秋で薄氷がはっている。
ぬかる道を、穴あき靴をはいての作業は大変苦しいことだった。

この作業を行う生徒の行列の様子を思い出してみると悪夢だったのかと思われて感慨無量である。


[No.165] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/29(Fri) 09:44
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> > > > 昭和18年に小学校に入学した。
> > > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

当時、学生服を着ている者は少なく、ほとんどが、自家製の袷(あわせ)等であった。
服も靴も配給で数が問題にならないほど少なく、くじ引きで分けられた。
生徒の服装は、粗末な上下一枚をまとっている位なもので肌着はほとんどなく、靴下をはく者はいなかった。
寒い冬も、これで耐えてきたのである。寝具にしても藁を敷きゴザを敷いたのが敷布団である。

また当時は、大切な布の原料となる麻を、どこの農家でも栽培して、その麻で糸をつむぎ、糸を撚り、布を作る機織りが盛んに行われた。

その頃の農家の栽培作物は、稲、稗、粟、麦、大豆、小豆、ソバ、キビ、トウキビ(とうもろこし)、ジャガイモ、カボチャ、ゴマ、その他野菜若干である。

家畜では、馬、山羊、兎、鶏等であり、現代とは大きくちがう。

たまに村に来る自動車はめずらしかった。その車は、木炭車といって、木炭を燃料として走る車だった。
戦時中、私の部落には、自転車二台、ラジオ二台位のものであった。

昭和一桁から二桁前半の人たちは多少の差こそあっても、あの戦争のどさくさを体験したはずである。
そうした時代を経て、子供たちは大きくなり、大人は食うために働き、共に苦労して生き延びてきたのである。
今この恵まれた社会にあって、最高に幸せな生活を送っていることに、深く感謝しなければならないと思う。
直接戦地に行って不幸にあった多くの人たち、気の毒にもとうとい犠牲となってしまった人々、そういう人々のことは忘れてはならないと思う。


この文章の中で「部落」という言葉があるが
関西や西日本から来た人が聞く「部落」から連想するものとは違う。
東北・北海道で部落というのは、村よりも小さい単位で、地域の集落のひとまとまりをさす言葉です。
  藤村の「破戒」や住井すゑの「橋のない川」の部落ではありません。


[No.168] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/12/02(Mon) 05:15
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これは別の人の書いたものです。

書いた人は女性です。

私の昭和史

楽しかった小学校時代
著者は昭和24年生まれ。

小学校高学年の頃、住んでいた町営住宅には小学生が8,9人いたし、赤ちゃんもいて大変にぎやかであった。
石けり、ゴムとび、かん蹴り、かくれんぼ、どれもなつかしい遊びであるが、かくれんぼをしていたとき、なわだと思ってつかんだら蛇だった。

住宅には大きな桜の木が2本あり、毛虫が洗面器にいっぱいとれたり、真夏になると蛾の天国で、朝になると大小さまざまの蛾が洗面器いっぱいということがよくあった。
この頃から毛虫とか蛾は大嫌いで、思い出してもぞっとしてしまう。

幼児も混えて、よくままごと遊びをした。ござをしき、スカンポやタンポポ、ツユクサ等でごはんや汁をつくった。

冬になると、坂でよくそり遊びをした。坂の下は県道であったが、車はあまり通らず、それでも一人交代で見張りをし、すべって遊んだ。
坂には次の朝まで必ず灰がまかれてあった。

テレビが近所の家に入ったのは、昭和34,5年頃だったろうか。
それまではラジオの子供向けの連続放送があると、遊びをやめて、どこかの家でラジオの前に座り聞いた。
それがテレビに変わると、皆で最初に買った家に押しかけ、ラジオ同様の格好で眺めたものだった。

キャラメルやチョコレートを持っていける遠足は楽しみであった。それとともに楽しみなのはバナナであった。今は果物の中で一番安いけれども、その当時は高級品であり、食べられる時は誕生日とか遠足のときだけだった。

小学5,6年のとき、学校給食が始まった。もちろん今のようにセンター方式でなく、学校で、しかも調理には父兄が交代で手伝いにきた。
大豆が入ったのをよく食べさせられた。
小学校卒業の離散会のときのごちそうは給食であった。
卒業時まであの脱脂粉乳にはなじめっず、小学校最後の脱脂粉乳も鼻をつまんで息もつかずに一気に飲んだ。
それ以来牛乳は大嫌いな食品となった。脱脂粉乳がアメリカでは家畜の飼料だったということを知ったのは、十年以上もたってからであった。