あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

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  • [No.201] Re: CENSORED 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 21:16
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    小机さん みなさん

    >  戦後まもなく、封書の下の部分にセロファンが張られていて
    > CENSOREDと印刷されていることがありました。
    > 辞書で調べると「検閲済み」という意味らしいと判りましたが
    > 誰が何処でやっているのか子供には分かりませんでした。
    >  手際が良くてどう開封したのかも判りませんでしたが、その
    > セロファンも印刷されていた文字も目新しく不思議な感じが
    > しました。

    そうでした!
    占領初期、日本人が異常なほど冷静で占領軍に対して反抗する
    態度がないことに驚いたそうです。新聞や放送の検閲から少し遅れて
    民間検閲隊(CivilCensorshipDepartment:CCD)が発足して民間
    人の私信まで開封されていました。アトランダムだったのかどうか知りま
    せんが私の父宛てのは殆ど検閲済みでした。現在のセロテープのような
    薄いのじゃなくかなり分厚い透明テープですが当時は珍しくて感心した
    ものです。
    父は敗戦時は弘前にある米兵捕虜収容所の副所長をしていて戦犯
    指定こそ免れましたが(上官の所長はBC級戦犯に)そのことを気にして
    いたので復員後も狙われていると疑心暗鬼で居りました

    このことは忘れてしまいたいが忘れられない暗い思い出の一つです(;_;)

        さんらく亭@甲子園


    [No.200] Re: 地主と小作 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 20:26
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    あやさん  こんばんは

    > 夫の家は大地主だったようで、小作人というのですか、16人
    > ほどいたようです。
    > 昔は大きな屋敷で、正月などは小作人の家族も合わせて
    > 100畳敷きの部屋とかに集ったとか。

    世が世であれば
    あやさんは大地主で大金持ちの大奥様。

    でも
    人の世話をする、やさしいあやさんは
    今も多くの人たちの心の支えです。


    [No.199] Re: 地主と小作 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 20:22
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    私は都会生まれですし、両親のいない貧乏な家で育ったので、
    このようなことはわかりません。

    夫の家は大地主だったようで、小作人というのですか、16人
    ほどいたようです。
    昔は大きな屋敷で、正月などは小作人の家族も合わせて
    100畳敷きの部屋とかに集ったとか。

    その後農地改革で土地を16人にわけたらしく、今ではその方たちの
    方が裕福に暮らしているようです。

    今は実家と、かなり離れたところに大きな物置小屋があるだけに
    なってしまいました。

    そんな長くない道路は今でも実家のものなのか、電灯代が市からなにがしか
    もらえるようです。


    [No.198] Re: 一クラス80人。 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 20:13
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    昭さん、みなさん

    >  50人と言うのは、25年に新制高校に入学した際のクラス人数で卒業の時は40人に減じていました。

    そうでしたか。

    >
    >  私も、終戦の年の7月2、3日頃から迎に来た叔母の所に個人疎開して12月初めに自宅に帰りました。6月28日の夜の佐世保大空襲で私の家の全滅を心配していたようです。

    やはり疎開をなさったんですね。学校からは「集団疎開」個人では「縁故疎開」
    と言ったのでしょうか。

    >
    >  22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
    >
    >  この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。

    大変な思いをなさったのですね。考えられないことです。                      


    [No.197] Re: 通信簿・卒業アルバム 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 20:08
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    男爵さん

    > 藤田まことは
    > 1973年、時代劇「必殺仕置人」に中村主水役で出演。
    > 表の姿は
    > 「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」というので
    > 姑の「せん」と嫁の「りつ」にいびられる役。
    >  (「せん」と「りつ」は戦慄からきている)

    「せん」さんと、「りつ」さんなんて名をつけるとはすごいですね。

    >
    > 「必殺仕置人」は人気ドラマとなって
    > 藤田まこと主演の「必殺シリーズ」は名前を変えながら19年も続いたのでした。

    19年も続いたのですか? 
    それにしても男爵さん、何事にも通でいてびっくりです。


    [No.196] Re: CENSORED 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 19:48
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    >
    >  戦後まもなく、封書の下の部分にセロファンが張られていて
    > CENSOREDと印刷されていることがありました。
    > 辞書で調べると「検閲済み」という意味らしいと判りましたが
    > 誰が何処でやっているのか子供には分かりませんでした。

    そうです
    手紙はすべて検閲されたのです。
      いまなら電話もメールもすべて盗聴されたようなもの。

    小説「ビルマの竪琴」も細かく検閲され、直されて
    ああいう形で発表されたわけです。

    童謡「みかんの花咲く丘」も検閲を通らないと発表できなかったのです。

    だから
    忠臣蔵の映画や芝居はいつ観客の前で上演されたのでしょうか。


    [No.195] CENSORED 投稿者:小机  投稿日:2010/12/14(Tue) 19:27
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     戦後まもなく、封書の下の部分にセロファンが張られていて
    CENSOREDと印刷されていることがありました。
    辞書で調べると「検閲済み」という意味らしいと判りましたが
    誰が何処でやっているのか子供には分かりませんでした。
     手際が良くてどう開封したのかも判りませんでしたが、その
    セロファンも印刷されていた文字も目新しく不思議な感じが
    しました。


    [No.194] Re: 通信簿・卒業アルバム 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 12:12
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    あやさん

    > > 「当たり前田のクラッカー」
    > >  てなもんや三度笠、1962年5月6日〜1968年3月31日
    > > てしたね。
    > >
    > > 藤田まことは後に、ムコ殿と呼ばれてしまいます。

    > 藤田まことは知っていますよ。ムコ殿ってどういう意味ですか。

    藤田まことは
    1973年、時代劇「必殺仕置人」に中村主水役で出演。
    朝日放送プロデューサーの山内久司から依頼を受けたのですが
    「一見情けない男だが、実は腕利きの殺し屋」という裏の設定で
    表の姿は
    「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」というので
    姑の「せん」と嫁の「りつ」にいびられる役。
     (「せん」と「りつ」は戦慄からきている)

    「必殺仕置人」は人気ドラマとなって
    藤田まこと主演の「必殺シリーズ」は名前を変えながら19年も続いたのでした。


    [No.193] Re: ローソク送電とパン焼き器 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 11:39
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    紫竹さん こんにちは  待っていました!

    > 戦後すぐは工場などが止まっていたせいか、結構電気はあったように思うのですが、しばらくすると(と言ってもいつごろかは覚えがない)電気の供給が足りなくなり、時間を限ってロウソク送電と言って、電圧を下げて送電するようになりましたね。ぼやっと光る灯りの周りに集まっていた記憶があります。

    私も記憶があります。
    一瞬、家の中がほの暗くなり童話の世界になったような...
      実際は心細くなって、はやくもとの明るさにもどればいいと思いましたが。

    後年、父の転勤で
    酪農地帯に家が移りましたが
    夕方になると各酪農家で一斉に乳搾り作業がはじまると
    それはミルカーという機械でしぼるので
    消費電力が急に上がるため
    電灯の明かりが暗くなるのがわかりました。
     戦後のことを思い出したものです。

    > それにつれて思い出したのは、パン焼き器。木の箱の両側にトタン板を貼って、間に小麦粉を練ってベーキングパウダーを入れたものを入れ、電気を流すとパンのようなものが焼けるのです。焼けたら電気が通らなくなるわけで、合理的なパン焼き器でした。

    これはほかの本で読んだことがあります。
    たぶん
    日本のどこから博物館か郷土資料館に展示されているでしょう。

    > 水に電気を流して風呂を沸かしたと言う話も聞いたことがありますが、ほんとでしょうか。

    よく
    海外旅行にもっていくと便利というグッズの一つして
    どこでもお湯を沸かせる携帯湯沸かし器(本体は実は棒一本)があります。
    http://item.rakuten.co.jp/tabizakka/0190515/
    水を入れたカップの中に、この棒を入れたら、水がお湯になるので
    大きな棒で時間をかければ、桶の中の水もお湯になるかもしれません。


    [No.192] ローソク送電とパン焼き器 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 11:06
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    みなさん こんにちは

    戦後すぐは工場などが止まっていたせいか、結構電気はあったように思うのですが、しばらくすると(と言ってもいつごろかは覚えがない)電気の供給が足りなくなり、時間を限ってロウソク送電と言って、電圧を下げて送電するようになりましたね。ぼやっと光る灯りの周りに集まっていた記憶があります。

    それにつれて思い出したのは、パン焼き器。木の箱の両側にトタン板を貼って、間に小麦粉を練ってベーキングパウダーを入れたものを入れ、電気を流すとパンのようなものが焼けるのです。焼けたら電気が通らなくなるわけで、合理的なパン焼き器でした。

    でも、パンの両側に亜鉛や鉄が溶けだして色がついていましたが、もったいなくて食べちゃったのじゃないでしょうか。

    こんなパン焼き器も電気の消費量を増やした一つかもしれませんね。

    水に電気を流して風呂を沸かしたと言う話も聞いたことがありますが、ほんとでしょうか。


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