メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.191]
絶唱
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/14(Tue) 09:25
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> > 農地改革と言いました。
戦後の農地改革では
山林については改革の対象とならず,山林地主が残存しましたね。
それはさておき
戦後になっても身分制はしっかりと残っていて
山林地主の息子が山番の娘と仲良くなって
一緒に暮らすなんてとんでもないことでした。
「絶唱」
作詞:西條八十、作曲:市川昭介、唄:舟木一夫
昭和41年(1966)公開の日活映画「絶唱」(西河克己監督)の主題歌。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/05/post_1c0c.html
山陰一の山林地主園田家の1人息子・順吉(舟木一夫)と、山番の娘・小雪(和泉雅子)の悲しい愛の話。
この映画は三度作られました。
第一作は、小林旭と浅丘ルリ子が主役
そして
第三作では、三浦友和と山口百恵でした。
終戦直後にこのような映画を見た人の感動とか素朴な気持ちは
現代の若者が、この映画を見たときの気持ちとはかなりのずれがあるのではないかと思います。
でも今でも、大会社の経営者の一人息子が、お抱え運転手の娘と恋愛したり
大病院の院長の息子が看護婦(看護師)と仲良くなり結婚したいというと
まわりはあわてることでしょう。
[No.190]
Re: 地主と小作
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/14(Tue) 09:05
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瀬里恵さん
> 私の生家も取り上げられました。私の古里には沢山居ますヨ。
> 農地改革と言いました。
農地改革はGHQの考えだと思ったら
すでに
北一輝が、「日本改造法案大綱」で
華族制の廃止、普通選挙、言論の自由、農地改革、労働8時間制、義務教育制、基本的人権の擁護など訴えていたんですね。
ということは、農地改革をGHQに提案した日本人がいたのかもしれません。
> > 民主化とか政教分離ということも
> > ありましたね。
>
> 憲法第二十条に「如何なる宗教団体も国から特権を受け また
> は政治上の権力を行使してはならない。」「何人も宗教上の行為
> 祝典 儀式または行事に参加する事を強制されない。」
> 「国及びその機関は 宗教教育その他のいかなる宗教的活動を
> してはならない。」
>
> と定められています。これは多くの問題を孕んでいますネ
> まず公明党は憲法違反(政治上の権力行使)にならないか。
> 総理の靖国参拝が宗教活動に該当するなら、キリスト教の日曜礼拝
> や仏教による葬儀や法事に参列する事も 宗教活動になる。
ここらあたりになると
議論が続出しそうなので
別のところで改めて議論をしていただきたいものです。
公明党の憲法違反については
これを問題にする政党とか代議士や評論家がいると思いますが。
[No.189]
Re: 地主と小作
投稿者:
投稿日:2010/12/14(Tue) 08:39
[関連記事] URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/ |
> みなさんの回りには
> 不在地主として、それまで持っていたたくさんの農地を
> とりあげられた人はいませんか。
私の生家も取り上げられました。私の古里には沢山居ますヨ。
農地改革と言いました。
> 民主化とか政教分離ということも
> ありましたね。
憲法第二十条に「如何なる宗教団体も国から特権を受け また
は政治上の権力を行使してはならない。」「何人も宗教上の行為
祝典 儀式または行事に参加する事を強制されない。」
「国及びその機関は 宗教教育その他のいかなる宗教的活動を
してはならない。」
と定められています。これは多くの問題を孕んでいますネ
まず公明党は憲法違反(政治上の権力行使)にならないか。
総理の靖国参拝が宗教活動に該当するなら、キリスト教の日曜礼拝
や仏教による葬儀や法事に参列する事も 宗教活動になる。
男爵さんはどのように考えますか。
瀬里恵
[No.188]
Re: 地主と小作
投稿者:しろくま
投稿日:2010/12/14(Tue) 08:30
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> 戦後のGHQの大きな政策は
> 財閥解体と農地解放でした。
>
> みなさんの回りには
> 不在地主として、それまで持っていたたくさんの農地をとりあげられた人はいませんか。
> 私は、そういう人を知っています。
> 農地がたくさんあったのに、とりあげられてしまったと教えてくれた人がいます。
祖父は不在地主でした。しかしそれを嫌い、韓国へ教師となって逃げたのです。生活費の補充や、分家の娘の結婚の支度、分家の息子の進学の補助などその都度、土地を切り売りしたため、農地改革の頃にはその対象にはなりませんでした。
祖父は帰国後、数か月で亡くなりました。
[No.187]
Re: 一クラス80人。
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/14(Tue) 06:47
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昭さん
> 22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
>
> この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。
これを読んで
岩手大学工学部の歴史を思い出しました。
戦前にあった盛岡高等工業学校(盛岡工業専門学校)が大学になったのは昭和24年ですが
終戦とともに
進駐軍に校舎を明け渡さなくてはならなくなり
かわりに学校関係者は
町はずれの旧陸軍の兵舎に移転させられました。
学生は勉強するところではなく、教授たちも研究するには劣悪の環境に
おしこめられ
当時の思い出を読むと、ノミとシラミに悩まされたそうです。
[No.186]
Re: 一クラス80人。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/13(Mon) 23:50
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男爵さん、あや さん、皆さん。
> すごいですね。80人とは! 空襲で焼失した学校は多かったはずですが、
> どういうわけか80人ではなかったですね。
> 私が通った学校は、50人か55人でした。5組までありました。
50人と言うのは、25年に新制高校に入学した際のクラス人数で卒業の時は40人に減じていました。
> 考えてみると私など幸せだったのですね。
> 田舎に疎開した1年位の間も、お寺に来ていた東京の疎開児童はいましたが、
> 学校は至極平和でした。
> いろいろな学校があったというか、私が無知だったというか、
> 勉強させていただきありがとうございました。
私も、終戦の年の7月2、3日頃から迎に来た叔母の所に個人疎開して12月初めに自宅に帰りました。6月28日の夜の佐世保大空襲で私の家の全滅を心配していたようです。
22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。
〜〜 昭 〜〜
[No.185]
地主と小作
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/13(Mon) 22:33
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戦後のGHQの大きな政策は
財閥解体と農地解放でした。
みなさんの回りには
不在地主として、それまで持っていたたくさんの農地をとりあげられた人はいませんか。
私は、そういう人を知っています。
農地がたくさんあったのに、とりあげられてしまったと教えてくれた人がいます。
民主化とか政教分離ということも
ありましたね。
[No.184]
Re: 税務署長の冒険
投稿者:
投稿日:2010/12/13(Mon) 21:56
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男爵さん、
早速に恐れ入ります。
> 宮沢賢治は
> 1896年(明治29年)に生まれて、 1933年(昭和8年)に亡くなったのですから
> 戦争前の人ですが
> それでも、密造酒の童話を作っているから
> 昔から密造酒をつくって脱税していた話はいっぱいあったのでしょう。
>
> 宮沢賢治はエスペラント語の講演を聞いて
> 自分もエスペラント語の勉強をします。
> だから
> 彼は岩手のことをイーハトーヴォ(イーハトーヴ)と名づけたり
> 盛岡のことをモーリオと呼んだりしました。
> エスペラント語では地名はオで終わるのだとか。
>
ははぁ、イーハトーヴというのは聞いたことあります。
ここからきていたのですね。
>
> こちらてす。
> http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html
>
1日ボランティアで、やっと今、ここへ取り付きました。
開いてみましたが、丁寧に読むことはかなわず、飛ばし読みを
しました。漢字が面白かったのが印象的でした!
あとでゆっくっりと!!
> この中に出てくる
> ハーナムキヤの町とは花巻のことで
> ユグチュユモトの村とは花巻温泉の入口に近い湯口地区のことです。
なんか、面白い!
[No.183]
税務署長の冒険
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/12(Sun) 20:27
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> > あとで時間があったら
> > 宮沢賢治の
> > 密造酒を調べる
> > 税務署長の童話を紹介したいと思います。
> > もっとも、これは戦争前の話ですが。
>
> 待っています。
あやさん
宮沢賢治は
1896年(明治29年)に生まれて、 1933年(昭和8年)に亡くなったのですから
戦争前の人ですが
それでも、密造酒の童話を作っているから
昔から密造酒をつくって脱税していた話はいっぱいあったのでしょう。
宮沢賢治はエスペラント語の講演を聞いて
自分もエスペラント語の勉強をします。
だから
彼は岩手のことをイーハトーヴォ(イーハトーヴ)と名づけたり
盛岡のことをモーリオと呼んだりしました。
エスペラント語では地名はオで終わるのだとか。
この童話では職務に熱心な税務署長さんは
苦心して密造の現場をおさえようと
聞き込みをしたり、変装して酒を買おうとして
必死に動き回ります。
そして、とうとう密造酒の工場を見つけます。
しかし、庶民も必死ですから、あべこべに署長さんは捕まってしまいます。
とうとう縄で縛られた署長さん
どうしよう、殺してしまおうかなどと物騒な相談がはじまり
あわやというところで、部下が助けに来ます。
こちらてす。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html
この中に出てくる
ハーナムキヤの町とは花巻のことで
ユグチュユモトの村とは花巻温泉の入口に近い湯口地区のことです。
[No.182]
Re: 戦災孤児2
投稿者:
投稿日:2010/12/12(Sun) 20:14
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男爵さん
>
> 実は
> 小学生のときの先生が
> あるとき教室で
> 自分の祖父が風呂上がりで
> 家の前でしゃがみこんで、そのまま亡くなったという話をしてくださいました。
> 行いの良い人はその一生を最後に飾るというのです。
>
> もうひとつ
> 私がお世話になった農学部の先生は
> 退職されて学術会議の委員となり
> その委員会のあとに東京から自宅に帰ってきて
> お風呂に入り、ウィスキーをコップ一杯飲んで
> 二階でゆっくりしているうちに亡くなったそうです。
> こういう死に方は最高だと思いますが、この先生にしてできたことでしょう。
死に方としてはイイかも知れませんね。
でもその前に、私などは家の中を片付けなきゃと思います。
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