あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

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  • [No.151] Re: 戦後史 投稿者:   投稿日:2010/12/10(Fri) 18:41
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    男爵さん

    >
    > > それと中学校の庭続きが羽田飛行空港でした。昔は「飛行場」ですかね。
    > > そこへ先生とクラスの人たちとよく行きました。

    > 近かったのですね。
    > ということは
    > 飛行機の騒音も大きかったのでしょうか。

    飛行機の騒音が大きかったかどうか、記憶にありません。
    大きな校庭を歩くと川、海があって、その川の向こうが飛行場でした。

    「一中丸」と名のついた小さな舟で渡るのです。誰が動かしたのかな?


    [No.150] シューシャンボーイ。 投稿者:  投稿日:2010/12/10(Fri) 14:14
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     戦後彼方此方の都市でシューシャンボーイが出現したと思います。
    私の住む街も、旧海軍の軍港都市でしたので米軍が進駐し多数の子供がシューシャンボーイとして一生懸命働いていました。

     駅周辺、繁華街特に米軍の兵隊が集まる箇所には10数人ずつ数箇所で行っていましたが、殆どが戦災孤児のようで、長崎に投下された原爆で孤児になった子供達も可也居ました。余りに多くて客の奪い合いで喧嘩になったりしていました。

     これ等は、朝鮮動乱が始まったS.25年〜動乱が終わった後の28年頃までが一番多かったようです、朝鮮に出兵する兵士達は宵越しの金は持たないみたいな感じで有り金はたいて行く兵士も多かったようで、シューシャンボーイにも釣銭は要らないと気前良くドルで支払っていました。

     当時は、ドル高(固定レートの360円)でしたので彼らはドルでの支払いを喜んで受け取っていました。

     こう言った中で、S.26年に当時世界的にも有名だったと聞き及んでいますが、バイオリニストのメニューイン(又は、メニューヒン)氏が当市での公演の為お出でになられることになり、其れを知った孤児のシューシャンボーイの一人が、毎日の売り上げの中から幾ばしかの金を、前売り券を販売しているレコード店に預けてヤッとチケットを手に入れました。

     この話を、当市に来て聞いたメニューイン氏は、その様な人にこそ自分の音楽を聞いてもらいたかったと感激されて、其の子に会いたいと申され、お会いになられた際に欲しいものはないかとたずね、其の子がバイオリンを欲しいと言った事から、楽器店でこうして其の子供に渡されました。

     シューシャンボーイも十人十色で色んな人がいました。バイオリンを贈られた子は、その後バイオリン教室に通っていましたが、その後のことは知りません。

     長文ですみません。


                                〜〜 昭 〜〜


    [No.149] Re: 戦災孤児1 投稿者:BUP  投稿日:2010/12/10(Fri) 09:46
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/bup/index.html

    > その後の BUPさんの動きが
    > 気になります。
    >
    > 日本に帰ったのは、いつでしょうか。
    南の島から復員したのは終戦の翌年7月でした。
    「大正の部屋」でイロイロとヒマツブシやらせて貰ってますんで・・・
    おヒマでしたら、ドウゾ。


    [No.148] Re: 戦災孤児1 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 07:22
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    しろくまさん こんにちは

    > 戦災孤児といえば空襲などで焼け出された人ばかりではないのですね。

    > 私は日本が敗戦にならなければ生まれなかった人間です。

    > 敗戦になり父の一家は強制的に帰国させられ、母と結婚することになり、私や弟が生まれました。
    >日本が勝っておれば私や弟は絶対に存在しない人間とこどもの頃から何回考えたことでしょう。

    人間の運命は
    自分のしらないところで決まるのですね。
    与えられた貴重な人生を大切にしたいものです。


    [No.147] Re: 戦災孤児1 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/10(Fri) 07:17
    [関連記事

    > 3月10日 あの夜、大森馬込の自宅に帰ってました。
    > 乗機のエンジン交換で内地に帰っていたのです。
    > 夜中に二階の北側の窓から、真っ赤に燃えている空が見えました。
    > 何にも知らずに、数日後、南の空に向けて旅発ちました。

    その後の BUPさんの動きが
    気になります。

    日本に帰ったのは、いつでしょうか。


    [No.146] Re: 戦災孤児1 投稿者:しろくま  投稿日:2010/12/09(Thu) 21:23
    [関連記事

    > 今でも時々思うことなのだが、私の戦後の第一は、「孤児となった」
    > ことに尽きると考えている。
    > 東京大空襲の日、池上本門寺のある山へ父だけを残して逃げた。
    > 夜中だったと思うが、山の上から電車が火を吹いて走っているのが見え、
    > そばの池の中に入っている人たちがいた(死んでいたのではないと思う)
    > その時、母の下駄の鼻緒が切れた。玄関の開いている家があったので、
    > 母は声をかけた。下駄を借りようと思ってのことだろう。ところが呼べど
    > 叫べど誰も出てこない。母は玄関へ入り、駒下駄を履いて出てきた。深々と
    > 頭を下げて。
    > そんな母は昭和22年5月9日に入院した。その翌日のまだ家族全員が寝て
    > いる明け方、医師と看護婦の訪れによって母の死が知らされたのだ。
    > 白いごはんと、お刺身と、お風呂が大好きな母だった。私は9歳、母は32歳。
    > しのばるるととせも前のひなまつり母もいまして桃をかざりぬ
    > 千代紙のひな作りゆくわれの手のしわ多くあり母のしのばる
    > この平和永くつづけと祈りつつ戦火に焼けたひな思う日よ
    > 折りあげし雛の顔の妣似かな
    > 母の忌の母の日となる今年かな
    > 初夢の妣色白き三十路かな
    >
    > こんな短歌、俳句を詠んだが、母が懐かしい。

    戦災孤児といえば空襲などで焼け出された人ばかりではないのですね。
    いろんな形で孤児となった人が存在するのですね。戦争を憎まずにはいられません。
    でも、お母様はきっとあやさまを見守っておられることと思います。

    私は日本が敗戦にならなければ生まれなかった人間です。
    父はその父親の仕事の関係で現在の韓国に居り、母は日本に居りました。敗戦にならなければそれは変わらなかったことでしょう。

    敗戦になり父の一家は強制的に帰国させられ、母と結婚することになり、私や弟が生まれました。
    日本が勝っておれば私や弟は絶対に存在しない人間とこどもの頃から何回考えたことでしょう。


    [No.145] Re: 戦災孤児1 投稿者:   投稿日:2010/12/09(Thu) 20:31
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/bup/index.html

    > 東京大空襲の日、池上本門寺のある山へ父だけを残して逃げた。
    > 夜中だったと思うが、山の上から電車が火を吹いて走っているのが見え、
    3月10日 あの夜、大森馬込の自宅に帰ってました。
    乗機のエンジン交換で内地に帰っていたのです。
    夜中に二階の北側の窓から、真っ赤に燃えている空が見えました。
    何にも知らずに、数日後、南の空に向けて旅発ちました。
    池上は子供の頃の遊び場で、お会式の太鼓のドンドンツクツクの音が耳に残っております。


    [No.144] Re: 戦災孤児1 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/09(Thu) 20:22
    [関連記事

    あやさん

    > そんな母は昭和22年5月9日に入院した。その翌日のまだ家族全員が寝て
    > いる明け方、医師と看護婦の訪れによって母の死が知らされたのだ。
    > 白いごはんと、お刺身と、お風呂が大好きな母だった。私は9歳、母は32歳。
    > しのばるるととせも前のひなまつり母もいまして桃をかざりぬ

    かわいそうな話ですね。
    あやさんは9歳、そして弟さんはもっと幼かった。
    いま、人の世話をして元気に活動しているあやさんにも
    そんなことがあったのですね。


    [No.143] 戦災孤児1 投稿者:   投稿日:2010/12/09(Thu) 19:05
    [関連記事

    今でも時々思うことなのだが、私の戦後の第一は、「孤児となった」
    ことに尽きると考えている。
    東京大空襲の日、池上本門寺のある山へ父だけを残して逃げた。
    夜中だったと思うが、山の上から電車が火を吹いて走っているのが見え、
    そばの池の中に入っている人たちがいた(死んでいたのではないと思う)
    その時、母の下駄の鼻緒が切れた。玄関の開いている家があったので、
    母は声をかけた。下駄を借りようと思ってのことだろう。ところが呼べど
    叫べど誰も出てこない。母は玄関へ入り、駒下駄を履いて出てきた。深々と
    頭を下げて。
    そんな母は昭和22年5月9日に入院した。その翌日のまだ家族全員が寝て
    いる明け方、医師と看護婦の訪れによって母の死が知らされたのだ。
    白いごはんと、お刺身と、お風呂が大好きな母だった。私は9歳、母は32歳。
    しのばるるととせも前のひなまつり母もいまして桃をかざりぬ
    千代紙のひな作りゆくわれの手のしわ多くあり母のしのばる
    この平和永くつづけと祈りつつ戦火に焼けたひな思う日よ
    折りあげし雛の顔の妣似かな
    母の忌の母の日となる今年かな
    初夢の妣色白き三十路かな

    こんな短歌、俳句を詠んだが、母が懐かしい。


    [No.142] Re: 通信簿・卒業アルバム 投稿者:   投稿日:2010/12/09(Thu) 18:56
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    男爵さん

    > >> ご近所に付き、ヨロシクネ。
    > >> 子供たちは「入新井第二」でした。
    > >
    > > 入新井とは、なつかしいです。近くでしたもの。ヨロシクデス。
    >
    > ここで知る
    > つながりでしたね。

    ほんと! そのころ知りあっていたらよかったかなー。


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