> 今でも時々思うことなのだが、私の戦後の第一は、「孤児となった」 > ことに尽きると考えている。 > 東京大空襲の日、池上本門寺のある山へ父だけを残して逃げた。 > 夜中だったと思うが、山の上から電車が火を吹いて走っているのが見え、 > そばの池の中に入っている人たちがいた(死んでいたのではないと思う) > その時、母の下駄の鼻緒が切れた。玄関の開いている家があったので、 > 母は声をかけた。下駄を借りようと思ってのことだろう。ところが呼べど > 叫べど誰も出てこない。母は玄関へ入り、駒下駄を履いて出てきた。深々と > 頭を下げて。 > そんな母は昭和22年5月9日に入院した。その翌日のまだ家族全員が寝て > いる明け方、医師と看護婦の訪れによって母の死が知らされたのだ。 > 白いごはんと、お刺身と、お風呂が大好きな母だった。私は9歳、母は32歳。 > しのばるるととせも前のひなまつり母もいまして桃をかざりぬ > 千代紙のひな作りゆくわれの手のしわ多くあり母のしのばる > この平和永くつづけと祈りつつ戦火に焼けたひな思う日よ > 折りあげし雛の顔の妣似かな > 母の忌の母の日となる今年かな > 初夢の妣色白き三十路かな > > こんな短歌、俳句を詠んだが、母が懐かしい。
戦災孤児といえば空襲などで焼け出された人ばかりではないのですね。 いろんな形で孤児となった人が存在するのですね。戦争を憎まずにはいられません。 でも、お母様はきっとあやさまを見守っておられることと思います。
私は日本が敗戦にならなければ生まれなかった人間です。 父はその父親の仕事の関係で現在の韓国に居り、母は日本に居りました。敗戦にならなければそれは変わらなかったことでしょう。
敗戦になり父の一家は強制的に帰国させられ、母と結婚することになり、私や弟が生まれました。 日本が勝っておれば私や弟は絶対に存在しない人間とこどもの頃から何回考えたことでしょう。
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