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[No.7242] 大豆は何処からやって来た? 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/22(Sat) 17:25
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大豆は何処からやって来た? KANCHAN

 私は先日のブラジル行きで、SEKITA農場で自家製の豆腐をごち
そうになった。しかし、その時そのことの意味を理解できなかっ
た。ただ、こんな異国の地で、日本食の最たる豆腐を出されたこ
とを、ただ、「日系人の郷愁か」とめずらしく思ったものだ。

 翌々日、一番若い従弟に、見渡す限りに広がる、大豆とトウモ
ロコシの畑に連れて行かれた。従弟の運転で巨大なハーベスター
の乗せてもらって、大豆とトウモロコシの刈り取りをやって、
機械化農業を経験できたことに感激したのであるが、そこで気が
ついた。そう、くだんの豆腐の原料大豆はここで採れたものであ
った。

しかし、私はもっと大事なことに気が付いていなかった。

SEKITA農場のトウモロコシは、大豆との輪作であるという。
大豆は連作すると収穫量が落ちる。それを避けるために翌年は
トウモロコシを植える。トウモロコシの伐採は大胆?なもので
あった。茎から、実からそのまま刈り取って粉々に砕く。そして
それはそのまま乳牛の餌に使うのであった。

 SEKITA農場では800頭の乳牛を飼っていた。さらには、その牛
たちから生まれた子牛が200頭も飼われていた。壮大な眺めであ
った。しかし、私はそれに気を取られて、もっと・もっと大事な
ことに気が付いていなかった。

 問題は大豆である。

 日本人は、味噌に醤油、納豆に豆腐と、大豆がなければ生きて
行けない。その大豆が、実に90%以上を外国からの輸入に頼って
いると帰国してから知った。

平成17年の統計によれば、日本国内の大豆消費量は年間約434万
トン。このうち国産大豆は約23万トンにすぎないという。そして、
434万トンの内、約308万トンはサラダ油など精油用の原料に使わ
れたという。

その大豆の輸入先が下図の通りであった。つまり、私はひょっと
すると日本で、ここSEKITA農場で生産された大豆を食していたの
かもしれないのであった。

この表を見ながら、思わずTPP交渉を思い出すのであるが、実は
この表の裏に、さらに劇的な事実が隠されていたのである。

 1973年、ソ連をはじめとする世界中が穀物の凶作となり、なん
とアメリカニクソン大統領は大豆の禁輸措置に出たのである。
(以下次週)


表 2005(平成17)年度の主要な輸入相手先 単位:千トン

 輸入先国       輸入量    割合

 アメリカ     3,126  74.8%
 ブラジル       562  13.4%
 カナダ        305   7.3%
 中国         184   4.4%
 オーストラリア      3   0.1%

 総合計      4.180 100.0%


資料:日本貿易統計 品別国別(財務省)による

                      (2015.8.8)

注:KANCHANから送られたエッセイの掲載です(GRUE)


[No.7244] 大豆は何処からやって来た?(2) 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/25(Tue) 00:07
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大豆は何処からやって来た?(2)
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大豆は何処からやって来た?(2) KANCHAN

 私は、3月にブラジルを訪問して、どうして私の叔父一族が、
現状のような大農園の経営に成功したのか不思議でならなかった。

 そこで帰国後に知り合いの多いNHKの関係者に探りを入れた
りしていたのであるが、大方のブラジル理解はドラマ「ハルと
ナツ」で取り上げられた、いわゆるブラジル移民物語の域を出
ないものであった。それはブラジル日系人についての暗いイメ
ージが主であった。 

 そうこうする中に、私は、新橋にある「日本ブラジル中央
協会」に行って掲題の本を見つけたのである。ほとんど青天の
霹靂であった。

 2005年現在の世界主要国の大豆生産量は下図の通りで、
ブラジルが第2位を占めているが、ここに至るには、実は壮大な
ドラマがあったのである。実は、ブラジルの大豆生産量は、
1975年時点ではなんと430千トンにすぎなかったという。

 嘗て、ブラジルの内陸部は、農業に適さないと思われていた、
セラードと呼ばれる荒れ地であった。ブラジルは1960年に新し
い人工都市ブラジリアを建設したが、次なる課題は、その
セラードの開発であった。

 1974年田中角栄首相の肝いりで、国際開発機構(JICA)を
中心として、日本の民間資本とブラジル側の官民協力の出資
会社と共同で、「日伯セラード農業開発協力事業(プロセデ
ール)」がスタートした。

 日本の援助は、多量の石灰等の投与による、酸性土壌の
改良、その地に適する農産物の選定等の技術援助、ならびに
多額の資金援助であった。

 ブラジル側が土地を確保した。そこに、日系人2世達が
勇んで、協力に飛び込んで行ったという。そして、それから
20年余りのうちに、ブラジルは南半球最大の農業国となった
のである。

 実は私の叔父たちは、ブラジル政府とJICAが乗り出す前の
段階から、COPIAという日系移民農業協同組合と、ミナス
ゼライス州との協力により、サンゴダルド市でセラード開発
の実験的な事業を開始していた。

 プロセデール事業はその実績・成果を基にはじめられた
のであった。叔父たちはブラジル農業革命の先兵だったので
ある。
 
資料 2005(平成17)年度の主要国の大豆生産量 単位:千トン

 主要生産国      生産量    割合

 アメリカ    82,820  39.4%
 ブラジル    50,195  23.9%
 アルゼンチン  38,300  18.2%
 中国      16,900   8.0%
 インド      6,600   3.1%
 パラグアイ    3,513   1.7%
 日本         200   0.1%
 その他     11,418   5.4%

 総合計    209,976 100.0% 

 資料:FAOSTAT database(インターネットで公表)による

                  (2015.8.22)

注:KANCHANから送られたエッセイの掲載です(GRUE)


[No.7245] 大豆は何処からやって来た?(3) 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/29(Sat) 20:48
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大豆は何処からやって来た?(3) KANCHAN

 ブラジルには1908年以来の日系移民たちがいて、主として南部のサンパウロ州
や、パラナ州に住んで、着々と地歩を固めていた。そして、それまでブラジル
には見られなかった農業協同組合方式で、生産性の向上ならびに、流通面の強化
を図っていた。

 そのうちの最大の組織がコチア農業協同組合であった。この組合は、次なる
発展の地として、嘗て鉱業で栄えたミナスゼライス州に目を向け始めていた。
ミナスゼライス州はブラジリアにも近く、州都ベルオリゾンテでは、日本と
ブラジルとの共同事業であるミナス製鉄所も操業していた。

 1971年、ミナスゼライス州に若きの農務長官パウリネリが登場した。彼は
セラードを耕作地に転換することを夢見て検討を重ねる中で、日系人農業組合
のコチアに目を付けたのである。

 1973年同州の南部の高台地サンゴダルドで両者の協力によるパダップという
計画植民事業が始まった。

 約24,000ヘクタールの地を州側が用意し、1区画250ヘクタールとして分譲
した。最終的な入植者は日系人を中心に89農家であったという。その中に3人
の息子を伴った私の叔父一家がいたのであった。叔父59歳、長男29歳であった。

 南部でコーヒー等を栽培していた農家の平均的な耕地面積はせいぜい10〜
数10ヘクタールであっから、ミナスゼライス州の1区画250ヘクタールという
のは大変な広さであった。叔父たちは、息子たち3人と合わせて、
250×4=1,000ヘクタールで始めた。ここではトラクター他の機械による
開発が可能であった。

 低い灌木地帯をこの機械力で伐採し、土地には大量の石灰とリン肥料を
埋め込んだという。水については、近くを流れる川からくみ上げて、大規模
な灌漑設備を整えた。そしてそこに、主として大豆とトウモロコシを植えた。
大豆について日本人は栽培ノウハウに詳しかったのである。

 事業は着実に、成果を上げ始め、ブラジル中の注目を集めるにいたった。

 1973年、世界を異常気象が襲った。大豆の価格は急騰し、最大の生産国で
あるアメリカでは、ニクソン大統領が大豆の禁輸を決めた。最大の輸入国で
ある日本はショックを受けたのである。

 それに先だって当時の経団連会長土光敏夫氏が、ミナスゼライス州の
農務長官パウリネリの案内で軽飛行機に乗って、同州のセラードを視察し、
その開発を考え始めていたという。

 1974年、田中角栄首相がブラジルを訪問し、カイゼル大統領と会談、
両国が農業開発で提携することを決定した。

 1979年、両国の官民共同事業として「日伯セラード農業開発協力事業
(プロデセル)」がスタートした。

 ここに至るまでに、日本側では1974年に国際協力事業団(JICAの前身)が
設立され、ブラジルの土地改良や、栽培農産物の検討等が始まっていた。
このとき、先行したミナスゼライス州サンゴダルド地区の成功が高く評価
され、参考とされた。

 プロデセル計画は日本の技術支援、資金協力が柱である。そして、日系人
2世3世の優秀な労働力・企画力が不可欠であった。1979年の開始から3次に
分けて、2001までの22年間に及ぶが、最終的に21ヵ所の入植地を造成し、
東京都の面積の1.5倍34万5千ヘクタールの農地が開発された。日本の資金
協力は総資金量の約半分、351億円に上った。

 この計画が起爆剤となって、ブラジルの経済・社会が大変革を遂げたのである。

                      (2015.8.29)

注:KANCHANから送られたエッセイの掲載です(GRUE)


[No.7246] 写真1 叔父達の開墾風景 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/29(Sat) 21:00
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写真1 叔父達の開墾風景
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叔父達の開墾風景 1975年頃?


[No.7247] 写真2 現在の大豆畑 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/29(Sat) 21:02
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写真2 現在の大豆畑
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現在の大豆畑。橋のように見えるのは自走式散水機。


[No.7248] 写真3 にんじん畑で 投稿者:KANCHAN  投稿日:2015/08/29(Sat) 21:04
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写真3 にんじん畑で
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ニンジン畑で従弟と現場主任と。
ニンジンは従弟が栽培法を考えたもの。現在ブラジル1の出荷量である。