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[No.7263] 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/06(Sun) 11:47
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忘れ路の北イタリア〜2
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フェッラーラには初めて行った。あまり下調べをしなかったので何があるのか知らなかった。ところが、ここはかの有名なジローラモ・サヴォナローラの生誕の地だった。

 よくよくあっしらは、サヴォナローラに縁があるらしい。というのは、30年前初めてのカイガイで、フィレンツェを訪れたが、この時、シニョリーア広場で彼が火刑に処せられた場所を発見したからだ。

 その時はまさか、将来彼の生誕の地を訪問することがあるとは夢想だにしなかった。大体彼は罪びととして処刑されたのだし、どの本を見ても称賛しているものはないはずである。しかし、過日、渋谷のBunkamuraで「ボッティチェリとルネッサンス 〔富と美〕」展を見たとき、彼の存在価値を発見した。

 あっしらは、サヴォナローラは狂僧であると教えられていたが、果たして彼をこの一語で葬り去っていいものか。メジチ家の政治は正しかったのか。かなり乱れていたのではなかったか。やはり、社会にはある程度の節度というものが必要ではないのか。

 わが国でも、寛政のころ奢侈禁止令がでたりした。これに従わないものは幕府の容赦ない弾圧を受けた。火刑こそなかったが、歌麿の危な絵は狙い撃ちにされ、京伝などは手鎖の刑に処せられた。

 思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

 サヴォナローラの話はこの辺にして、次はフェッラーラの『アンブレラ祭り』について。6月の旅行で、フェッラーラを訪れた時、旧市街でなにか変ったイベントをやっているに気づき、好奇心だけは旺盛なあっしらは、さっそく見物することにした。

 実に見事だった。通りの名は(あとで分かったがマッツィーニ通りだった)覚えていないが、それは50メートル以上もあっただろうか。行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、この街は自転車乗りでも有名で、歩く人と同じくらいの数の自転車が走りまわっているので、上ばかりのんびり眺めてもいられない。じつは、


 この催しは、今年の5月1日から6月の30日までで、「雨傘満開の空」と銘打って行われ、商店街の販売増進のため企画されたようだ。あっしらは期間中の6月10日にこの街を訪問した。

 これは今年だけの催しのようだが、8月には毎年ブスケルズ・フェスティヴァルというものがあり、これには外国からもミュージシアンや大道芸人が大勢集まって、あちらこちらで色々な得意技を披露したらしい。

 また、フェッラーラは、スペインから追い出されたユダヤ人を大量に受け入れた町としても知られていて、ユダヤ系の家に生まれた地元の作家、ジョルジョ・バッサーニも、そのことに触れている由。あっしも、ヒマが出来れば、バッサーニの「フィンツィ・コンティーニ家の庭」(ヴィアレッジョ賞受賞)でも、ゆっくり読んでみたい。

 あと特筆すべきはこの街には、クラウディオ・アッバードがタクトを振る交響楽団があるのだとか。

 写真は、30年前あっしが偶然に発見した、サヴォナローラ火あぶりの刑の跡を示すマンホール上の文字。 (つづく)

 


[No.7265] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/06(Sun) 13:30
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Re: 忘れ路の北イタリア〜2
画像サイズ: 560×315 (85kB)

>  実に見事だった。通りの名は(あとで分かったがマッツィーニ通りだった)覚えていないが、それは50メートル以上もあっただろうか。行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、この街は自転車乗りでも有名で、歩く人と同じくらいの数の自転車が走りまわっているので、上ばかりのんびり眺めてもいられない。じつは、

写真は、その雨傘の競艶会の様子。


[No.7270] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:ザックス  投稿日:2015/09/10(Thu) 09:03
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>行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、

私はヤクルトファンな紋で、傘は大歓迎です。

いつも博識をよんで感謝です。

来週は「北イタリアの旅」という、旨いものを食う会が半蔵門であるので、助かりました。どんな料理か、楽しみです。ワインもその辺のが飲めるようで・・・。


[No.7271] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/10(Thu) 13:59
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 ザックスさん、レス、有難うございます。

> 私はヤクルトファンな紋で、傘は大歓迎です。

そのようですね。野球の観客席の雨傘は、ヤクルト名物でしたね。ところで、雨傘は、洋の東西を問わず、なかなか情緒がありますね。

 フランス映画に「シェルブールの雨傘」なんてのがありますね。これはヒロインの家業が傘屋だそうで。

 雨傘はフランス語でパラプリュイ。プリュイとなると、ヴェルレーヌの詩が思い浮かびますね。巷に雨の降るごとく、ですか。雨も降りすぎは困りますが、適当に降って呉れれば、こんな素晴らしい物はありません。

 イタリアの傘も、長い歴史があるようですね。あっしが、女だったら、パソッティのカタログを取り寄せちゃうかも。

 http://www.i-piazza.co.jp/pasotti/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/%E5%82%98/1page.html

> いつも博識をよんで感謝です。

 いえいえ、ザックスさんほどではありません。

> 来週は「北イタリアの旅」という、旨いものを食う会が半蔵門であるので、助かりました。どんな料理か、楽しみです。ワインもその辺のが飲めるようで・・・。

  イタリアンワインは、シチリアなどにもあるようですが、やはり、北が有名だし、美味いですね。


[No.7267] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/07(Mon) 00:29
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Re: 忘れ路の北イタリア〜2
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>  また、フェッラーラは、スペインから追い出されたユダヤ人を大量に受け入れた町としても知られていて、ユダヤ系の家に生まれた地元の作家、ジョルジョ・バッサーニも、そのことに触れている由。あっしも、ヒマが出来れば、バッサーニの「フィンツィ・コンティーニ家の庭」(ヴィアレッジョ賞受賞)でも、ゆっくり読んでみたい。

あっしらが知らずに写真を撮っていたマッツィーニ通りはもともとゲットーのあった地域で、しかも写真の建物は、地味で気が付かなかったが、現役のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)でありかつ、ユダヤ博物館だったらしい。

 ここには、シナゴーグが複数あったが、戦争中にファシスト達の手で破壊された模様。95番と云う数字はマッツィーニ通りの番地を意味する。


[No.7274] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/10(Thu) 22:35
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>  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

と書いた後、おとといだか、美術史家の松浦弘明氏の「世紀末におけるボッティチェリ」という文章に出会い、ボッティチェリと云う画家をより深く知ることが出来た。
 
 それまでは伝統にのっとって制作に励んでいた彼ではあるが、1490年以後大変貌を遂げるのである。たまたま、グアルディと云う富豪に、祭壇画を依頼されたボッティチェリは、当時の慣行を破って、画期的な画面を作り上げたという。

 テーマは例の「受胎告知」だが、従来の静的な表現を至極当然のように考えていた画家仲間を、アッとのけぞらせるような、スゴイ作品を発表したのだ。つまり、画中の登場人物がすべて動いている。聖母マリアが、ヨハネが、マグダラのマリアが、アリマタヤのヨセフが、血の通ったポーズを取っている。

 こういう人だったからこそ、過激なサヴォナローラの言説が理解できたのではないか。ボッティチェッリは「ピエタ」でも、ペルジーノなどの使った、ありきたりの表現に、到底甘んじられなかったのが、よくわかる。

 有名なヴァザーリは、自著「美術家列伝」の中で、ボッティチェリを、くさしてはいるが…。

  

 


[No.7276] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/10(Thu) 23:45
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紋次郎さん、みなさん、こんばんは、

フェッラーラのご案内ありがとうございます。

イタリア北部エミーリア=ロマーニャ州(州都はボローニャ)の西部の
大きな都市ですね。隣のトスカーナ州の州都はフィレンチェでルネッサ
ンスで強い繋がりがありましたね。

> フェッラーラには初めて行った。あまり下調べをしなかったので何があるのか知らなかった。ところが、ここはかの有名なジローラモ・サヴォナローラの生誕の地だった。

そうですね。近いフィレンチェに出ていったのは必然だったかも。

>  あっしらは、サヴォナローラは狂僧であると教えられていたが、果たして彼をこの一語で葬り去っていいものか。メジチ家の政治は正しかったのか。かなり乱れていたのではなかったか。やはり、社会にはある程度の節度というものが必要ではないのか。

メディチ家の批判をやるところまではよかったかも。始めは時も彼に味方した
かもしれません。

>  わが国でも、寛政のころ奢侈禁止令がでたりした。これに従わないものは幕府の容赦ない弾圧を受けた。火刑こそなかったが、歌麿の危な絵は狙い撃ちにされ、京伝などは手鎖の刑に処せられた。
>
>  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

そう思います。修道僧だから、宗教的信念で突っ走っては行き詰まるかもしれない。
ローマ教皇にまで批判の目を向けて、メディチ家が反攻してきるなどしては、持た
ないのでしょう。時も変わってきたし、市民からも厭きられたということもありそ
う。最後は絞首刑の後に火刑。

ただ、教皇さえ恐れない態度は、後の宗教改革の先駆者とも見られているよう
です。