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[No.7276] Re: 忘れ路の北イタリア〜2 投稿者:GRUE  投稿日:2015/09/10(Thu) 23:45
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紋次郎さん、みなさん、こんばんは、

フェッラーラのご案内ありがとうございます。

イタリア北部エミーリア=ロマーニャ州(州都はボローニャ)の西部の
大きな都市ですね。隣のトスカーナ州の州都はフィレンチェでルネッサ
ンスで強い繋がりがありましたね。

> フェッラーラには初めて行った。あまり下調べをしなかったので何があるのか知らなかった。ところが、ここはかの有名なジローラモ・サヴォナローラの生誕の地だった。

そうですね。近いフィレンチェに出ていったのは必然だったかも。

>  あっしらは、サヴォナローラは狂僧であると教えられていたが、果たして彼をこの一語で葬り去っていいものか。メジチ家の政治は正しかったのか。かなり乱れていたのではなかったか。やはり、社会にはある程度の節度というものが必要ではないのか。

メディチ家の批判をやるところまではよかったかも。始めは時も彼に味方した
かもしれません。

>  わが国でも、寛政のころ奢侈禁止令がでたりした。これに従わないものは幕府の容赦ない弾圧を受けた。火刑こそなかったが、歌麿の危な絵は狙い撃ちにされ、京伝などは手鎖の刑に処せられた。
>
>  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

そう思います。修道僧だから、宗教的信念で突っ走っては行き詰まるかもしれない。
ローマ教皇にまで批判の目を向けて、メディチ家が反攻してきるなどしては、持た
ないのでしょう。時も変わってきたし、市民からも厭きられたということもありそ
う。最後は絞首刑の後に火刑。

ただ、教皇さえ恐れない態度は、後の宗教改革の先駆者とも見られているよう
です。


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