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[No.7279] 忘れ路の北イタリア〜3 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/12(Sat) 23:03
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忘れ路の北イタリア〜3
画像サイズ: 580×326 (86kB)
  北イタリアでは、2回以上行ったところがいくつかある。それはヴェローナ、パードヴァと、このヴェネツィアである。しかも、ヴェネツィアは3回目である。


  よほど相性がいいのかも知れぬ。しかも、この街は他のイタリアの都市に比べ、非常に多くの魅力に富んでいる。

  こんな面白いところが、ほかにあるだろうか。一番素晴らしかったのは、港を後にするクルーズ船の、いと高き甲板の上から、箱庭のようなヴェネツィアの風景を眺めたときで、眼下には、ほかの港ではチョット見られない光景が展開していた。

  陸地に立つ、色も形も大きさも違う、無数の建物、橋や森、公園など。教会の塔などが、いくら見ていても飽きないほど、次々に展開していく。

 運河を行きかう大小の船、その交通はとめどなく続く。

 また、今回のヴェネツィア歩きでは、ツアはもちろん、個人旅行でも通らないような、飾らない庶民の暮らしぶりを直接目の当たりにできた。これは、ガイドが地元の人間で、ヴェネツィアのあらゆる小路、路地に精通していたからこそできた街歩きだったと思う。

 まるで、そこがナポリの下町ででもあるかのように、ビルとビルの間にたくさんの洗濯物が、まるで横断幕のように吊るされていたり、黒い生ごみの袋が、家ごとに外壁に括りつけてあったり。


 『パラッツォ・ドゥカーレ』★の夜間見学では、ふりの旅行者ではなかなか見られない堂内のあれこれを、椅子に掛けたままゆっくり鑑賞したり、普段は外側から眺めることの多い、パラッツォ内の牢獄をあたかも囚人か看守ででもあるかのように、その狭い石の通路を、実際に歩いてみたり房内を恐る恐る覗いてみたり、


 その挙句には、例の『ため息橋』に立って、当時の囚人の心に思いを馳せながら、前方に小さく見える世界各国からの大勢の観光客を、反対側から眺めるという、ゼイタクで、チョット得難い体験まですることが出来た。

 以前は、もちろん、あっしも、外側からこの橋を写した覚えがある。ところで、

 あっしらは恵まれていると思う。前に来た時は、カナル・グランデ(運河)で、予想外の大ボート大会(時期が5月だったので、いわゆるヴォガロンガだったのであろう)にぶつかり、世界中から参加した男女の漕ぎ手に見とれたり、これも世界の津々浦々からやって来た、老若男女の観客を観察してみたり。立って漕ぐ、ヴェネツィア独自の漕ぎ方に感心したり、ヴェネシアングラスで世界的に有名なムラノ島では、スリの洗礼を受け、帰りの船賃が乏しくなり、『あわや俊寛!』というところまで、追い詰められたことを含め、ヴェネツィアでは、

 とにかく、色々な面で、目いっぱい楽しむことが出来た。
 
★ヴェネツィア共和国の総督(イタリア語ではドージェ)の住まいだった由。こんなに立派な宮殿に住んでいては、毎日の掃除もさぞかし大変だったろう。(^^♪

  (つづく)

  写真は、マーチャンを置いて、アッカデミーア美術館に単身赴任(^^♪し、館内を見学した時のもの。絵はヴェネツィア派の、ベッリーニの「ピエタ」。


[No.7280] Re: 忘れ路の北イタリア〜3 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/13(Sun) 16:02
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Re: 忘れ路の北イタリア〜3
画像サイズ: 420×281 (76kB)
ヴェネツィアは近日中に海中に没するかも知れないということで一時世界中の関心が集まり、ユネスコまでが、拠金事業を始めたことがあった。あっしも当時乏しい小遣いの中から金三千円なりを寄付したものである。

 しかし、現在でも相変わらずそこに存在している。この分ではあっしより長生きすることは間違いないと思う。


 今さっきネットサーフィンをしていたら、このことに関心を持つ人がほかにもいて、質問をしていた。その回答によると、昨今の異常気象による海面上昇より、ヴェネツィアの場合は、地盤沈下の方が紋題だとしていた。なるほど、軟弱な地盤の上にずっしりした重量感のある建物を数多く載せている。

 今まで、あまり気にせずあの石畳を歩いていたが、急に心配になって来た。まさか、雪解け時の氷の上ではないが、歩いている内に地面が割れて海底に吸い込まれたりはしないであろうが。

 たまたま手元の古切手を弄んでいたら、これがヴェネツィアの切手で、しかも、

 この切手は、1973年の発行なので、その後もう、40年以上も生き延びていることになる。(^^♪なお、切手の印刷面は、サン・マルコ広場が水面下に沈んだ様子を表し、右上には「ヴェネツィアを救おう」の文字が。


[No.7281] Re: 忘れ路の北イタリア〜3 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/09/14(Mon) 11:02
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Re: 忘れ路の北イタリア〜3
画像サイズ: 420×308 (80kB)
>  この切手は、1973年の発行なので、その後もう、40年以上も生き延びていることになる。(^^♪なお、切手の印刷面は、サン・マルコ広場が水面下に沈んだ様子を表し、右上には「ヴェネツィアを救おう」の文字が。

 と書きながらあとで、どこにもその文字のないことに気づいた。申しわけありませんが、該当写真を再掲させて頂きます。<m(__)m>ついでに若干説明を加えると、前方に見える2本の柱の上の像は、向かって左側が、この広場の名前となった聖マルコをかたどったライオンの像で、右側はテオドロ聖人の像である。

  ということは、正面が大運河ということになるが、それでいいのだろうか。(^^♪

 なお、ふつうサンマルコ広場と云っているのは、大聖堂のある広いスペースで、その手前というか、運河に近いところも小広場になっているのはご存じのない方も、多いのではないか。

 つまり、このところはL字型になっているわけである。また、これらの柱は、運河から船で着くと、早く大聖堂を見たい一心から、観光客の中には、意外と見落としている方も多いかも知れない。

 さて物知りウィッキーさんによると、中世には、2本の柱の間に死刑執行台があったそうで、縁起が悪いので、地元民はゼッタイ、この間を通らないのだとか。

 あっしなぞ、もう何度もこの間を通っているので、首の皮も今ではだいぶ厚くなっているのかも知れない。(^O^)

 カイガイ旅行の際、こうした歴史というか、文化的な背景を知ることは、面白くて、ためになると、あっしなぞは、ひそかに思っている。