画像サイズ: 322×430 (62kB) 上述したように、この捕虜収容所には(当時は俘虜と云ったが)、各方面の専門家が蝟集し、いわば多士済々の状況であった。 その一例として、例えばこの絵、千葉の稲毛海岸の漁師の娘と云うことだが、実に上手に描いてある。顔は100年前にしては、すこしモダンな感じもするが、服装など、風俗資料としても立派だと思う。 一見版画のようにも見えるが、謄写版かも知れない。当時は版画などの道具も手に入りにくかっただろうから。 収容所の宿舎は、今から見れば、バラックのようなものだったが、意外なことに、東屋(かれらはLaubeと呼んでいた)とか、酒保などもあったという。
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