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[No.7860] 元禄の薩長連合 投稿者:男爵   投稿日:2017/04/21(Fri) 06:04
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  元禄の薩長連合
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元禄の薩長連合

「大日本史」を書いた水戸光圀  南朝正統論(足利尊氏は忠臣、楠木正成は逆賊 これを逆転させた) 光圀は版籍返上の考え?  光圀は尊皇敬幕

そういう噂を立てたのは、長州藩と薩摩藩? かれらの狙いは、尾張徳川家と水戸徳川家の対立分断 そして薩長連合で倒幕計画

 介(すけ)さんは薩摩藩  覚さんは長州藩 大日本史編集についての史跡調査と古文書探査と称して、薩長の動きを光圀はさぐらせようとするが.....

 しかし、介さんも覚さんも、領国に入れず。

ただ下記の事実を探ってきて、水戸光圀に報告した。
  長州藩の元旦の"獅士の廊下の儀"(今年は徳川を討ちますか 今年はやめておこう)
  薩摩藩の"妙円寺参り"(島津義弘を偲び、武士たちが鎧兜に身を固め城下から妙円寺にお参り)

水戸光圀のところに、威しに来た薩摩の使いに対して
光圀は反対に薩摩の行動はすべて見とおしていると言い返す。

琉球国は清国の冊封を受けているが、薩摩藩は琉球国を支配していることになっている。幕府には報告せず。 この情報を朱舜水から光圀は得ていたのだ。 琉球国の対中国朝貢貿易から甘い汁を吸う薩摩藩 光圀は知っていた。

    大活字 童門冬二集  げんだい時代小説


東大農学部はかつて水戸屋敷だった。

ここで儒学者朱舜水から光圀はシナソバ(ラーメン)をご馳走になった。

ということを
大学構内で思う人は少ないでしょう。

そもそも
大学は江戸時代には大名屋敷だったのです。

赤門も大名屋敷の由来。

歴史を思いながら本郷街道を散歩。


[No.7861] Re: 元禄の薩長連合 投稿者:男爵  投稿日:2017/04/21(Fri) 18:53
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Re:   元禄の薩長連合
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> 東大農学部はかつて水戸屋敷だった。

> ここで儒学者朱舜水から光圀はシナソバ(ラーメン)をご馳走になった。

東大農学部の中にある
朱舜水の記念碑。


[No.7862] 黄門ラーメン 投稿者:男爵  投稿日:2017/04/22(Sat) 05:19
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黄門ラーメン
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> > 東大農学部はかつて水戸屋敷だった。
>
> > ここで儒学者朱舜水から光圀はシナソバ(ラーメン)をご馳走になった。

黄門ラーメン

水戸黄門が食べた中国の麺。これぞ日本人が初めて食べたラーメン。

中国に憧れ儒学を学びたかった黄門様。
高名な儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい、1659に帰化)を苦労して交渉して1年かかって
長崎から江戸に迎えることができた。


黄門様は東京小石川後楽園の造築にあたっても、
朱舜水の意見にしたがい中国趣味を付け加え、中央に池、四方に築山を配して
各地の名所にちなむ堂社や亭(ちん)を建てた。


黄門様から手打ちうどんをご馳走になった朱舜水は喜んだ。
そして黄門様が麺好きなことも知った。
それならというわけで、おかえしに中国の麺を作ってご馳走した。

スープは豚の腿肉(ももにく)を塩漬けにした中国式ハムの火腿でとった。
麺は小麦粉につなぎとして藕粉(レンコンからとった料理用の澱粉)を使った。

さらに薬味は「川椒(チュアンヂャオ)」「青蒜絲(チンスァンスウ)」
「黄芽韮(ファンヤアヂウ)」「白芥子(バイヂェヅ)」「芫妥(妥は草冠)(イェンスイ)」
の5種類であった。
「川椒」は山椒のことだが、四川省の山椒という意味である。
「青蒜」は葉ニンニクのこと。「黄芽韮」は黄色いニラの若芽のこと。
「白芥子」は白カラシのこと。「芫妥(妥は草冠)」は香菜のことであった。

この黄門様の食べたというラーメンは新横浜のラーメン博物館に展示されている。


[No.7863] 麺文化 投稿者:男爵   投稿日:2017/04/25(Tue) 05:47
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うどん、蕎麦、ラーメン、ソーメン....

日本人の好きな麺類は、いつごろから食べられるようになったのだろうか?

禅僧によって持ち込まれた?

讃岐のうどんは、まさか、弘法大師が持ち帰ったものではないだろう?


ソーメンは伸ばしてつくる。索麺(そうめん)という。
手打ち蕎麦は、こねて、平らにのばしてから切って蕎麦にする。
あと
トコロテン方式で突きだしてつくるのが冷麺だ。

マルコポーロが元王朝の人々の(食べていた)麺を母国に伝えたのがマカロニだという説と
逆に
マルコポーロがイタリアの麺文化をジンギスカン王朝に伝えたという説がある。

いつか調べてみたい麺文化。