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[No.2422] 立原正秋「帰路」 投稿者:男爵  投稿日:2015/08/04(Tue) 05:38
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読みやすかった。
ヨーロッパの観光地、食べ物、飲み物が出てくる。
さりげなく、日本の文化のよさも語られる。

主人公は羊の目玉、羊の脳味噌を食べたことを語り
羊の目玉は鯛の目玉、羊の脳味噌はタラの白子と、それぞれ近い食べ物の例をあげている。

異国で自分を発見できなかった日本人、
ヨーロッパに酔ったいわゆるヨーロッパゴロ、あるいは帰国してヨーロッパの知識を切り売りしている日本人
などの日本人たちを批判している作者の目は、現代ではそう新しいものでもなく特異な見方ではないだろう。


「帰路」新潮社 は亡くなる年1980に書かれた作品で
晩年の作と解説にあった。

横光利一の「旅愁」を意識した小説であるという解説はなるほどと思う。

横光のめざした、西洋と東洋の文明の対立については
立原のこの作品では、西洋文明にかぶれて自己を失っている日本人
あるいはヨーロッパの表面的なことに心を奪われて、日本の価値に気づかない日本人
などのことをあげて批判しているのだが
こういう批判対象の日本人については、深田祐介が自分の作品の中でいくつか例を挙げていた。

ほかにも
東京芸大教授小泉文夫先生の下記のような発言もあります。

 どうも、明治のとき、西洋音楽を取り入れることだけ考えて、日本の伝統音楽を捨て去ったことが問題のようである。

 西洋音楽と日本音楽
 自分たちの立場を守っていながら西洋音楽のいいところを取り入れたり、相互に影響しあう立場がよい。

 諸外国ではそうやって積極的に伝統音楽を守っているから。


[No.2426] 藤子不二雄「少年時代」 投稿者:男爵  投稿日:2015/08/05(Wed) 14:04
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>立原正秋「帰路」は
> 横光利一の「旅愁」を意識した小説であるという解説はなるほどと思う。

> 横光のめざした、西洋と東洋の文明の対立については
> 立原のこの作品では、西洋文明にかぶれて自己を失っている日本人
> あるいはヨーロッパの表面的なことに心を奪われて、日本の価値に気づかない日本人
> などのことをあげて批判しているのだが
> こういう批判対象の日本人については、深田祐介が自分の作品の中でいくつか例を挙げていた。

戦中の(幻の)東京オリンピックを前に不安を抱いているヨーロッパ在住の日本人に対して
立原の書く日本人は、戦後に東京オリンピックを成功させた自信にあふれた日本人なので
昭和の日本人の変化というか成長というものを考えてみたいと思って紹介したのです。

さて
藤子不二雄「少年時代」ですが
これは東京の少年が富山に学童疎開する話で、一種のいじめ問題です。

いじめは昔からあった。 都会だけでなく、地方にもあった。

    ♪   ♪

「少年時代」は、藤子不二雄Ⓐによる
1978年(昭和53年)から1979年(昭和54年)まで『週刊少年マガジン』(講談社)に連載された。

この漫画には原作があり
芥川賞作家柏原兵三(かしわばら ひょうぞう)の小説「長い道」を漫画化したものである。

漫画版の舞台は、藤子不二雄Ⓐが戦時中に疎開した富山県朝日町山崎をモデルにしている。

『少年マガジン』連載当初は読者からの反響がまったく無く、作者(藤子Ⓐ)自身戸惑っていた。しかし連載が終了してから読者からの手紙が殺到したという。
 藤子は自分の本「まんが道」で書いているが、『少年マガジン』などでは、読者の人気投票があって、人気のない漫画は中止のうきめをみる。
 このような連載中に読者からの無反応の漫画は、たいていは中止になるのだが、寛大な編集部のおかげで、連載は最後まで続いたという。そして、連載が終わってから、とてもよかった、忘れられない作品だった、という読者からの感想は、編集部を驚かしたが、誰より作者の藤子が驚いたという。

読者の共感に勇気を得た藤子は映画化する決心をした。

1990年、東宝系にて篠田正浩監督で映画化され、日本アカデミー賞を受賞する。また井上陽水の大ヒット曲「少年時代」はこの映画の主題歌である。

   ☆   ☆

というわけで
柏原兵三の小説「長い道」を読んでいます。

主人公は父の実家の近くの富山県下新川郡入善町の上原小学校に転入します。(藤子不二雄Ⓐ安孫子素雄 が戦時中に疎開した富山県下新川郡朝日町山崎のとなり)

40歳前に亡くなった柏原兵三だが
彼の息子は、林真理子の編集担当で、彼女がよく「カシワパラ青年」と書いていた。

柏原兵三の出身の大学の学科には
山本有三、竹山道雄、柴田 翔などがいる。
 松本高校時代に北杜夫の後輩だった小塩 節(おしお たかし)は柏原の大学の先輩に当たる。


[No.2433] 学童疎開 投稿者:男爵  投稿日:2015/08/06(Thu) 20:16
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> さて
> 藤子不二雄「少年時代」ですが
> これは東京の少年が富山に学童疎開する話で、一種のいじめ問題です。

学童疎開には二種類あって
それは、集団疎開と縁故疎開だったのです。

集団疎開とは先生に連れられてクラスの仲間と一緒に疎開するので
子どもたちの人間関係は気心が知れているから落ち着きます。
 しかし、食べ物などの不足は都会と似たような状況。

縁故疎開は一人で親戚の家に疎開して、そこから地元の学校に通うから
一種の転校で、新しい人間関係に慣れるまで苦労しますが
食べ物は腹一杯食べられたようです。田舎では都会よりも食べ物があったから。

1942(昭和17)年4月18日
米軍のB25爆撃機は、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などの都市を爆撃した。

 全国で約41万人が疎開した。

1944(昭和19)年8月4日、東京都の集団疎開児童第一陣4800人が富山県に向けて出発した。
それから9月半ばまで集団疎開が進められ、約23万人が疎開した。
 疎開先で一番多いのが長野県で約3万7千人、福島県、群馬県、静岡県に約2万7000人〜2万9000人が疎開した。

同じように横浜市、川崎市、横須賀市から神奈川県下、名古屋市からは愛知県下や岐阜県や三重県へ、大阪市からは大阪府下や、滋賀県、奈良県、香川県などへ
神戸市、尼崎市からは兵庫県下や鳥取県、岡山県へ疎開した。

日本本土の疎開児童数は総計約41万人になった。

沖縄県からは、宮崎県、熊本県、大分県に疎開した。、

予定されていた福岡県の門司、小倉、戸畑、若松、八幡では縁故疎開をする児童が多かったため、集団疎開は行われなかった。

1944年8月22日 沖縄からの学童疎開船対馬丸が米潜水艦に撃沈される。

  学童疎開
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