これは別の人の書いたものです。
書いた人は女性です。
私の昭和史
楽しかった小学校時代 著者は昭和24年生まれ。
小学校高学年の頃、住んでいた町営住宅には小学生が8,9人いたし、赤ちゃんもいて大変にぎやかであった。 石けり、ゴムとび、かん蹴り、かくれんぼ、どれもなつかしい遊びであるが、かくれんぼをしていたとき、なわだと思ってつかんだら蛇だった。
住宅には大きな桜の木が2本あり、毛虫が洗面器にいっぱいとれたり、真夏になると蛾の天国で、朝になると大小さまざまの蛾が洗面器いっぱいということがよくあった。 この頃から毛虫とか蛾は大嫌いで、思い出してもぞっとしてしまう。
幼児も混えて、よくままごと遊びをした。ござをしき、スカンポやタンポポ、ツユクサ等でごはんや汁をつくった。
冬になると、坂でよくそり遊びをした。坂の下は県道であったが、車はあまり通らず、それでも一人交代で見張りをし、すべって遊んだ。 坂には次の朝まで必ず灰がまかれてあった。
テレビが近所の家に入ったのは、昭和34,5年頃だったろうか。 それまではラジオの子供向けの連続放送があると、遊びをやめて、どこかの家でラジオの前に座り聞いた。 それがテレビに変わると、皆で最初に買った家に押しかけ、ラジオ同様の格好で眺めたものだった。
キャラメルやチョコレートを持っていける遠足は楽しみであった。それとともに楽しみなのはバナナであった。今は果物の中で一番安いけれども、その当時は高級品であり、食べられる時は誕生日とか遠足のときだけだった。
小学5,6年のとき、学校給食が始まった。もちろん今のようにセンター方式でなく、学校で、しかも調理には父兄が交代で手伝いにきた。 大豆が入ったのをよく食べさせられた。 小学校卒業の離散会のときのごちそうは給食であった。 卒業時まであの脱脂粉乳にはなじめっず、小学校最後の脱脂粉乳も鼻をつまんで息もつかずに一気に飲んだ。 それ以来牛乳は大嫌いな食品となった。脱脂粉乳がアメリカでは家畜の飼料だったということを知ったのは、十年以上もたってからであった。
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