[No.165]
Re: 私の昭和史
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/29(Fri) 09:44
[関連記事] |
> > > > 昭和18年に小学校に入学した。
> > > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。
当時、学生服を着ている者は少なく、ほとんどが、自家製の袷(あわせ)等であった。
服も靴も配給で数が問題にならないほど少なく、くじ引きで分けられた。
生徒の服装は、粗末な上下一枚をまとっている位なもので肌着はほとんどなく、靴下をはく者はいなかった。
寒い冬も、これで耐えてきたのである。寝具にしても藁を敷きゴザを敷いたのが敷布団である。
また当時は、大切な布の原料となる麻を、どこの農家でも栽培して、その麻で糸をつむぎ、糸を撚り、布を作る機織りが盛んに行われた。
その頃の農家の栽培作物は、稲、稗、粟、麦、大豆、小豆、ソバ、キビ、トウキビ(とうもろこし)、ジャガイモ、カボチャ、ゴマ、その他野菜若干である。
家畜では、馬、山羊、兎、鶏等であり、現代とは大きくちがう。
たまに村に来る自動車はめずらしかった。その車は、木炭車といって、木炭を燃料として走る車だった。
戦時中、私の部落には、自転車二台、ラジオ二台位のものであった。
昭和一桁から二桁前半の人たちは多少の差こそあっても、あの戦争のどさくさを体験したはずである。
そうした時代を経て、子供たちは大きくなり、大人は食うために働き、共に苦労して生き延びてきたのである。
今この恵まれた社会にあって、最高に幸せな生活を送っていることに、深く感謝しなければならないと思う。
直接戦地に行って不幸にあった多くの人たち、気の毒にもとうとい犠牲となってしまった人々、そういう人々のことは忘れてはならないと思う。
この文章の中で「部落」という言葉があるが
関西や西日本から来た人が聞く「部落」から連想するものとは違う。
東北・北海道で部落というのは、村よりも小さい単位で、地域の集落のひとまとまりをさす言葉です。
藤村の「破戒」や住井すゑの「橋のない川」の部落ではありません。