関口一郎:「学ぶ」から「使う」外国語へ
著者は、アメリカ人との英語でのコミュニケーションには苦労している。 しかし、インド人やフランス人とは英語で通じる。お互いがネイティブスピーカーでない英会話なら、goはいつでもgoである。アメリカ人のような多様な動詞は必要がない。 アメリカ人からすれば「何とレベルの低い英会話だろう」と思うかもしれないが、そのときは「今の英語はあなたたちだけのものではありませんよ」と教えてあげよう。ついでに「あなたは英語以外の言葉を何か話せますか。日本語は?インドネシア語は?」とも聞いてみよう。
日本ではその他の外国語を流暢に話す人間が国際人だ、との誤解がある。 それだったら、アメリカ人をはじめとするすべての英語圏の人間は国際人になる。
国際コミュニケーション言語としての英語を、イギリス人やアメリカ人の英語と切り離して考えるべきであり、使うべきである。
言葉に関する限り、母国語を用いて外国人とコミュニケーションをとる人間は、洋の東西を問わず、むしろ自分がもらったハンディ(この著者は優位をハンディとみなしている)を常に意識する。ただし、この県については、アメリカ人は除外する。多くのアメリカ人は、自分とコミュニケーションをとる人間はすべて英語を使うと勝手に決めこんでいるからだ。
会話で一番こまるのは、言葉につまったときの空白で、そういうとき現地のドイツ人がどう言っているか観察した。あるわ、あるわ、山ほど出てくる。 「何といったらいいのか」「私の知る限りでは」「率直に申し上げてよければ」など、場つなぎ言葉の連発である。 重要な出来事のあった年にしても「たしかあれは....私が大学に入った時、いや卒業した頃だったかなあ」などと、本来なら1960何年にと、わずか数秒ですむものが、延々と引き伸ばされているのである。 間つなぎのための外国語というのは、正道の外国語教育としてはあまりすすめられたものではないが、コミュニケーションの流れということでは実際に必要である。
コミュニケーション中心の初級の外国語教育というのは、ひとつずつでよいから必要な文房具をワンセットそろえることだ(簡単な言い方でよいから、必要最小限の言い方を教えるということ)。 そうなると、語学教師の側でも、デパートのような大規模なものではなく、コンビニのようなコンパクトな店を受講者に提供してあげるのが必要ではないだろうか。
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語学の先生方と 大学の語学教育はどうあるべきかを議論したことがある。 語学の先生はたいてい文学部に属しているので シェークスピアやゲーテやトーマス・マンの文学を研究することが目的だから 教材に文学作品を使いたがる。 科学啓蒙書とか工業カタログのような理系の資料はまず使いたがらない。 いっぽうの学生は、語学を文学を学ぶために学ぶのではなく、道具として必要としているから その違いは大きい。 文系の学生はともかく、理系の学生は語学の教材として、文学作品より専門の理系に関係のある資料のほうが興味をひきやすい。
これまでの語学教育は、コミュニケーシュンのツールという考え方はあまりなかった。 その意味で、この著者の考え方は、学ぶ学生のニーズを考えているから 望ましいといえる。 国際会議で発表したり、外国の企業と技術交流をするには、実用的な語学教育が望まれる。
学生(お客)のための語学教育を意識していない、あるいはやろうとしても得意でない語学教師は 情報処理教育が苦手の情報工学科の教師たちと似ている点がある。 情報工学科の先生たちも、研究としての情報処理に興味があっても 素人(初心者学生)に情報処理技術の基礎とか具体的な利用のノウハウを 教えることにはあまり興味がないようである(人によるだろうが)。
むしろ情報処理技術を教えるのは ユーザとしての経験の豊富な、化学の教師や、機械工学、建設工学の教師のほうが 適しているように思う。
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