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[No.15536] 「学ぶ」から「使う」外国語へ 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/23(Fri) 09:13
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関口一郎:「学ぶ」から「使う」外国語へ

著者は、アメリカ人との英語でのコミュニケーションには苦労している。
しかし、インド人やフランス人とは英語で通じる。お互いがネイティブスピーカーでない英会話なら、goはいつでもgoである。アメリカ人のような多様な動詞は必要がない。
アメリカ人からすれば「何とレベルの低い英会話だろう」と思うかもしれないが、そのときは「今の英語はあなたたちだけのものではありませんよ」と教えてあげよう。ついでに「あなたは英語以外の言葉を何か話せますか。日本語は?インドネシア語は?」とも聞いてみよう。

日本ではその他の外国語を流暢に話す人間が国際人だ、との誤解がある。
それだったら、アメリカ人をはじめとするすべての英語圏の人間は国際人になる。

国際コミュニケーション言語としての英語を、イギリス人やアメリカ人の英語と切り離して考えるべきであり、使うべきである。

言葉に関する限り、母国語を用いて外国人とコミュニケーションをとる人間は、洋の東西を問わず、むしろ自分がもらったハンディ(この著者は優位をハンディとみなしている)を常に意識する。ただし、この県については、アメリカ人は除外する。多くのアメリカ人は、自分とコミュニケーションをとる人間はすべて英語を使うと勝手に決めこんでいるからだ。

会話で一番こまるのは、言葉につまったときの空白で、そういうとき現地のドイツ人がどう言っているか観察した。あるわ、あるわ、山ほど出てくる。
「何といったらいいのか」「私の知る限りでは」「率直に申し上げてよければ」など、場つなぎ言葉の連発である。
重要な出来事のあった年にしても「たしかあれは....私が大学に入った時、いや卒業した頃だったかなあ」などと、本来なら1960何年にと、わずか数秒ですむものが、延々と引き伸ばされているのである。
間つなぎのための外国語というのは、正道の外国語教育としてはあまりすすめられたものではないが、コミュニケーションの流れということでは実際に必要である。

コミュニケーション中心の初級の外国語教育というのは、ひとつずつでよいから必要な文房具をワンセットそろえることだ(簡単な言い方でよいから、必要最小限の言い方を教えるということ)。
そうなると、語学教師の側でも、デパートのような大規模なものではなく、コンビニのようなコンパクトな店を受講者に提供してあげるのが必要ではないだろうか。

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語学の先生方と
大学の語学教育はどうあるべきかを議論したことがある。
語学の先生はたいてい文学部に属しているので
シェークスピアやゲーテやトーマス・マンの文学を研究することが目的だから
教材に文学作品を使いたがる。
科学啓蒙書とか工業カタログのような理系の資料はまず使いたがらない。
いっぽうの学生は、語学を文学を学ぶために学ぶのではなく、道具として必要としているから
その違いは大きい。
 文系の学生はともかく、理系の学生は語学の教材として、文学作品より専門の理系に関係のある資料のほうが興味をひきやすい。

これまでの語学教育は、コミュニケーシュンのツールという考え方はあまりなかった。
その意味で、この著者の考え方は、学ぶ学生のニーズを考えているから
望ましいといえる。
 国際会議で発表したり、外国の企業と技術交流をするには、実用的な語学教育が望まれる。

学生(お客)のための語学教育を意識していない、あるいはやろうとしても得意でない語学教師は
情報処理教育が苦手の情報工学科の教師たちと似ている点がある。
情報工学科の先生たちも、研究としての情報処理に興味があっても
素人(初心者学生)に情報処理技術の基礎とか具体的な利用のノウハウを
教えることにはあまり興味がないようである(人によるだろうが)。

むしろ情報処理技術を教えるのは
ユーザとしての経験の豊富な、化学の教師や、機械工学、建設工学の教師のほうが
適しているように思う。


[No.15537] Re: 「学ぶ」から「使う」外国語へ 投稿者:   投稿日:2010/07/23(Fri) 11:25
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 男爵さん、みなさん、

> 関口一郎:「学ぶ」から「使う」外国語へ
> 語学の先生方と
> 大学の語学教育はどうあるべきかを議論したことがある。
> 語学の先生はたいてい文学部に属しているので
> シェークスピアやゲーテやトーマス・マンの文学を研究することが目的だから
> 教材に文学作品を使いたがる。
> 科学啓蒙書とか工業カタログのような理系の資料はまず使いたがらない。
> いっぽうの学生は、語学を文学を学ぶために学ぶのではなく、道具として必要としているから
> その違いは大きい。
>  文系の学生はともかく、理系の学生は語学の教材として、文学作品より専門の理系に関係のある資料のほうが興味をひきやすい。

 ここんとこ正に仰るとおりです。文系でも商社銀行に就職するものにトーマスマンは必要ないように思われます。しかし、現状はどうでしょう。

あっしもその文系ですが、トーゼン2年目の教科書は文学作品でした。おそらく理系でも同じようなテキストを使っていたのでしょう。文系に理系のテキストは適当でないので、これはこれで良かったと思います。

 仰るように理系には理系のテキストといっても、そうしたテキストを扱う本屋がまず存在しないし、それを教える教師もいないでしょう。ドイツとかフランスではそこんとこ、どうなっているのでしょう。

 日本で語学を教える〇〇講座の先生、大抵は文科系のようですね。あっしがイタリア語をならった某先生も、自国の大学の日本語科でまなび、専攻は日本映画でした。また、吉本ばななを訳して有名になったジェレヴィーニも文系に入るでしょう。

 してみると、外国の学校(日本語科)自体に、理系の先生がいないのでしょう。じつは滞日中のフランス人に、あっしが旅行中、じつに流暢な日本語をはなすフランス人がいたと書いたら、いまフランスには日本語を話し、日本を愛する若者が増えています。これはマンがなどのせいです、という返事を寄越しました。書いてる本人もそんなことで日本に来ているのでしょう。

 したがってこういう手合いが日本に来て語学の先生になるのでしょう。だいたい日本人でも、理系のひとは、語学の教師になんぞ成りたがらないのでは?


[No.15539] Re: 「学ぶ」から「使う」外国語へ 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/23(Fri) 19:04
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唐辛子 紋次郎さん、みなさん、

>  仰るように理系には理系のテキストといっても、そうしたテキストを扱う本屋がまず存在しないし、それを教える教師もいないでしょう。ドイツとかフランスではそこんとこ、どうなっているのでしょう。

私のいた大学の英語の先生は
アメリカの大学でも使っていたという
理科系のテキストを理系の学生に使っていましたが
それはその先生だけでした。

私はしかたないから
自分の専門の講義の中で
ドイツ語の文献を紹介したり
ドイツ語の問題集から出題してみましたが
これがなかなか好評というわけにはいかないのでした。

>  したがってこういう手合いが日本に来て語学の先生になるのでしょう。だいたい日本人でも、理系のひとは、語学の教師になんぞ成りたがらないのでは?

学生に聞いても
語学が嫌いだから理系に進んだのに
また語学をやるんですか
なんてことを言うのがいます。   困ったものですが。

さて
それはさておき
「国際人とは英語ができる人のことではない。
真の国際人とは、自分がどういうものかを知って、自分と違う相手のことを
知ろうとしたり理解しようと努力する人のことをいう」
という言葉、実は私のオリジナルではなく
あの美人の猪口邦子の受け売りですが
これをあるところでの講演で使ってみました。

猪口邦子先生は実は英語が大変上手なのですが
その猪口先生の言葉なら、私など英語苦手に者が言うより
ずっと説得力がありそうです。