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[No.12] 停年の風吹く朝 投稿者:   投稿日:2009/06/05(Fri) 19:06
[関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

停年の風吹く朝
画像サイズ: 190×379 (86kB)
瀬里恵がリタイアして23年経ちました。

♪♪思えば遠くへ来たもんだ♪♪ なんちゃって…(爆)

当時、わが社は停年55歳制で 定年延長を60歳まで認めていました。
しかし 折悪しくバブルがはじけ 全国的に不況の波が吹き荒れ わが社
でも 御多聞に漏れず いわゆる肩叩きが行われ 58歳を目前に勇退を
申し出ました。

♪♪停年の風吹く朝Good by 私は明日から孤高に生きる♪♪

と宮仕えから開放された喜びを歌を詠み もう何者にも拘束されないぞ と
勇躍退職したのを覚えています。
瀬里恵には 時間に縛られ好きな絵を存分に描けなかった、それを果たす夢
があったのです。

もちろん某美術団体の運営に参画し 絵も描きましたが リタイヤした途端
に 鎌倉の某自治会の事務局の役職にお呼びが掛かったり もと職場の文芸
同好会会誌の編集・発行の仕事から抜ける事も出来ず なかなか自分だけの
時間は随分と制約されていましたヨ。

本当の意味でのリタイヤは 平成4年に葉山町に転居してからでしょうネ。

4月 80歳の誕生日を迎えましたが 運動不足が祟ったか 目下足萎えで
外出にはステッキのお世話になっています。先日 野暮用で東京へ行ったら
胸が苦しくなり えらい目に遇いました。
しかし まだまだ死ぬわけには参りません。百歳までは生きるゾ…(笑)救心
でも飲んで頑張る積りです。 


[No.16] Re: 停年の風吹く朝 投稿者:   投稿日:2009/06/05(Fri) 20:42
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瀬里恵さん

> と宮仕えから開放された喜びを歌を詠み もう何者にも拘束されないぞ と
> 勇躍退職したのを覚えています。
> 瀬里恵には 時間に縛られ好きな絵を存分に描けなかった、それを果たす夢
> があったのです。
>
> もちろん某美術団体の運営に参画し 絵も描きましたが リタイヤした途端
> に 鎌倉の某自治会の事務局の役職にお呼びが掛かったり もと職場の文芸
> 同好会会誌の編集・発行の仕事から抜ける事も出来ず なかなか自分だけの
> 時間は随分と制約されていましたヨ。

 絵画、文芸など、いろいろな趣味をお持ちでいいですね。
 こういう趣味は「現役」のときからやっていらっしゃったのでしょうか。
 やはり、リタイヤしてから、何か新しく趣味を持つのは難しいのでしょうか。

> 4月 80歳の誕生日を迎えましたが 運動不足が祟ったか 目下足萎えで
> 外出にはステッキのお世話になっています。先日 野暮用で東京へ行ったら
> 胸が苦しくなり えらい目に遇いました。
> しかし まだまだ死ぬわけには参りません。百歳までは生きるゾ…(笑)救心
> でも飲んで頑張る積りです。 

 どうぞ、今後ともお元気でご活躍くださいませ。


[No.18] Re: 停年の風吹く朝 投稿者:善兵衛  投稿日:2009/06/06(Sat) 10:48
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最後の日は、「永いことお世話になりました。会社の益々の発展を祈ります。」
と感激が昂じたときでしたが、その気持ちは100パーセントではなくて、
気持ちの隅に、
「俺がいなくても支障ないように始末した。さっさと厄介払いしたいのだろ 」
「こんな会社頼まれたっていてやるもんか。あとは野となれ山となれ ! 」

この燻った思いは徐々に減って、26年経った今では僅かになったので、
この分で行けば往生間際にはゼロになります。


[No.19] Re: 停年の風吹く朝 投稿者:   投稿日:2009/06/06(Sat) 16:09
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善兵衛さん

> 最後の日は、「永いことお世話になりました。会社の益々の発展を祈ります。」
> と感激が昂じたときでしたが、その気持ちは100パーセントではなくて、
> 気持ちの隅に、
> 「俺がいなくても支障ないように始末した。さっさと厄介払いしたいのだろ 」
> 「こんな会社頼まれたっていてやるもんか。あとは野となれ山となれ ! 」

 分かります。
 卒業式に「母校の発展を心から祈っている」という気持ちもウソじゃない。
 −−−でも「ああ、せいせいした」という気持ちも、またウソじゃなかった
 と思います。


[No.80] Re: 停年の風吹く朝 投稿者:あやや  投稿日:2009/06/10(Wed) 13:12
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瀬里恵さん、善兵衛さん、マーチャン、みなさん、

勤務していた会社は、大手の電気メーカーの子会社でした。
1300人くらいいました。でも、あの当時の女性の停年は
それぞれの会社で自由だったのでしょうか? わが社は46歳でした。

東京から、地方に移った会社について私も移動。一軒家の社宅を与え
られて、勤務していました。土曜日には横浜の家に帰るのです。

後進の指導に当たってほしいと言われましたが、給料も安くなることで、
退職しました。係長のままでした。

善兵衛さんと同じように、私も退職の日に意地になって、千葉の工場へ
泊まりで行ってしまったのです。「昼に帰ってこい」と命令がきました。

帰ってくると大変、管理部、資材部などの5、60人が並んだ中を
大きな花束を抱えて、私は歩かされたのです、別れでした。外まで続いていて、
出ると役員車がドアを開けて待っていました。社宅まで送ってくれたのです。

写真は、送別会の写真アルバムに、私が作った栞に餞別の言葉をくれた
ものが貼られています。色紙にも、餞別の言葉が!