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[No.2] 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 08:32
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 我が家へテレビがお輿入れしたのは今の天皇様の「ご結婚」のとき。
 知り合いのお宅で、あの「馬車行列」(1959年)を見せていただき
 その素晴らしさに大いに感動。

 「ウチでもテレビを買いましょう」ということになりました。
 いつ購入したのかは忘れましたが「東京オリンピック」(1964)の
 入場式は我が家のテレビで見たような気がします。

 当時は、普通のお宅では家電製品は「月賦」で買ったのですね。
 毎月、3000円ずつの「月賦」の払いは大変だったのです。

 とにかく、一生懸命見ました。
 忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。

 「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
 「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。
 TV版ホームドラマの草分けでしょうね。

 会社の昼食時の話題にもなっていました。
 十朱幸代さんや、佐藤英夫さんなど、それぞれご贔屓があったようでした。

 当時は、そんなにチャンネルもありませんでしたから、みな同じような
 番組を見ていたのですね。
 
 


[No.3] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/01(Wed) 09:37
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マーチャン  こんにちは

>  我が家へテレビがお輿入れしたのは今の天皇様の「ご結婚」のとき。
>  知り合いのお宅で、あの「馬車行列」(1959年)を見せていただき
>  その素晴らしさに大いに感動。

私の家は貧しかったので
テレビはなかなか買えませんでした。
買ったのは私が大学に入ってからで
私は家族と離れていましたから
実家で見たのはたまの夏休みとか冬休みのときです。

町では
電気屋さんの前の高いところに置かれた街頭テレビで
力道山がスターでしたね。
あと、月光仮面.....  このころはテレビ番組も直接見ていません。

>  忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。
>
>  「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
>  「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。

「バス通り裏」は人気があったようです。
しかし、私が勉強しようとすると隣の家の部屋から、大きな音楽が流れて
私にとっては神経に害を与えるものでした。
あの番組を見たなら、また印象も違っていたのでしょうけれど。


[No.13] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 22:16
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> 私の家は貧しかったので
> テレビはなかなか買えませんでした。

私の家も同様でした。なにしろ弟2人との暮らしでした。上の弟が会社へ
入社して、その社宅に住まわせてもらったのです。

そして、そのテレビですが、会社の社長が、
「テレビがあれば外へ遊びに行かなくても済むだろう」
ということで、秋葉原から買ってきてくれたのです。
社宅に住む人たちにも買ったらしいです。代金は給料から毎月引かれたとの
ことでしたが、私たちはそれがなく、社長のプレゼントとなったのです。
若者3人姉弟が外へ遊びに出て、お金を使ったり、悪いこと? でもしないかと
心配してくれたのです。うれしかったですね。
そんなことで、ずいぶん若いときからテレビに馴染んでいました。

> 町では
> 電気屋さんの前の高いところに置かれた街頭テレビで
> 力道山がスターでしたね。

私がアルバイトをしていた喫茶店では大変でした。
店へ入らないで、ガラス越しに人だかりができたのです。

>
> >  忘れられないのが「バス通り裏」と「事件記者」でした。
> >
> >  「バス通り裏」は、軽快なテーマソングではじまり
> >  「等身大」(よりは少しいい暮らし)の市民の日常が描かれていました。
>

「事件記者」はなんとなく見たように思いますが、「バス通り裏」は
見ませんでした。
社長が買ってくださったテレビですが、遊び歩いていてあまり見ない
不良娘だったんです。


[No.18] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/02(Thu) 06:10
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> 若者3人姉弟が外へ遊びに出て、お金を使ったり、悪いこと? でもしないかと
> 心配してくれたのです。うれしかったですね。
> そんなことで、ずいぶん若いときからテレビに馴染んでいました。

当時は大変貴重なテレビでした。

> 社長が買ってくださったテレビですが、遊び歩いていてあまり見ない
> 不良娘だったんです。

外に出るのが好きだったんですね。


[No.36] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 21:46
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> > 若者3人姉弟が外へ遊びに出て、お金を使ったり、悪いこと? でもしないかと
> > 心配してくれたのです。うれしかったですね。
> > そんなことで、ずいぶん若いときからテレビに馴染んでいました。
>
> 当時は大変貴重なテレビでした。

そうでした。普通の家でテレビがあるのは珍しいことでした。

>
> > 社長が買ってくださったテレビですが、遊び歩いていてあまり見ない
> > 不良娘だったんです。
>
> 外に出るのが好きだったんですね。

登山などもしていましたが、会社に入社して毎夜のように同僚や
上司、業者の方などと呑んで歩いてましたよ。


[No.40] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/02(Thu) 22:16
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> > 外に出るのが好きだったんですね。
>
> 登山などもしていましたが、会社に入社して毎夜のように同僚や
> 上司、業者の方などと呑んで歩いてましたよ。

あやさん
それはどのあたりでしたか。
いっても当時と今では変わっているでしょうね。
オリンピック直前に横浜で実習生活をおくったのですが
あのときの工事をしていた横浜駅西口は
行くたびに様子が変わっていました。


[No.71] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/04(Sat) 22:01
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> > 登山などもしていましたが、会社に入社して毎夜のように同僚や
> > 上司、業者の方などと呑んで歩いてましたよ。
>
> あやさん
> それはどのあたりでしたか。
> いっても当時と今では変わっているでしょうね。
> オリンピック直前に横浜で実習生活をおくったのですが
> あのときの工事をしていた横浜駅西口は
> 行くたびに様子が変わっていました。

そうですね。
東京大田区にある会社でしたので、蒲田、大森、品川、新橋、横浜
もう、いろいろな場所でした。
横浜は関内の「船員バー」などもおもしろかったですね。


[No.73] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/05(Sun) 07:18
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> > あやさん
> > それはどのあたりでしたか。
>
> そうですね。
> 東京大田区にある会社でしたので、蒲田、大森、品川、新橋、横浜
> もう、いろいろな場所でした。
> 横浜は関内の「船員バー」などもおもしろかったですね。

蒲田や大森は
当時とだいぶ変わったでしょうね。
関内は、それこそ横浜開港時代から
外部と港の接点として人々の移動のポイントですね。
もちろん今は横浜駅が中心ですが
関内は昔から開けているから、楽しいところや歴史的なものが多く
また行ってみたいです。


[No.80] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:   投稿日:2010/12/05(Sun) 22:16
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男爵さん、

> > そうですね。
> > 東京大田区にある会社でしたので、蒲田、大森、品川、新橋、横浜
> > もう、いろいろな場所でした。
> > 横浜は関内の「船員バー」などもおもしろかったですね。
>
> 蒲田や大森は
> 当時とだいぶ変わったでしょうね。

変わりました。大変な変わりようですね。

> 関内は、それこそ横浜開港時代から
> 外部と港の接点として人々の移動のポイントですね。
> もちろん今は横浜駅が中心ですが
> 関内は昔から開けているから、楽しいところや歴史的なものが多く
> また行ってみたいです。

そうです。横浜よりも関内のほうがおもしろく、歴史的なものが多いです。
いつかお待ちしていますよ。


[No.83] Re: 黎明期の「テレビドラマ」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/06(Mon) 07:32
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> > > 横浜は関内の「船員バー」などもおもしろかったですね。

> > 関内は昔から開けているから、楽しいところや歴史的なものが多く
> > また行ってみたいです。
>
> そうです。横浜よりも関内のほうがおもしろく、歴史的なものが多いです。
> いつかお待ちしていますよ。

全国オフのあたりで
オフ前後に何度か山の手の洋館めぐりをして学習しました。
クリスマスの飾りも見ました。

関内駅からスタートして
もう一度、あの洋館巡りをしてみたいものです。