旅行記 
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[No.5292] Re: 2度目のシンガポール旅行 投稿者:男爵  投稿日:2017/03/06(Mon) 14:51
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> > シンガポールの植物園は
> > 一日しても見るところがいっぱい。


シンガポールが日本統治時代に、植物園を守った日本人がいた。

シンガポールは、昭和17年(1942年)2月から終戦までの3年半、日本軍によって占領された。
 
日本軍の占領で、それまで植物園や博物館(植物園に併置されていた)に蓄積されてきた標本や論文などの文化財が破壊されるのではないかと危惧したイギリス人学者がいた。
ケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポールに移り住んで13年間、植物園や博物館で研究を続けてきたE・J・H・コーナー博士である。
 
そのような状況のとき、シンガポールの文化財を守るため日本から一人の学者がやってきた。
東北帝国大学で地質学を研究していた田中舘(たなかだて)秀三博士(1884〜1951年)である。
 
田中舘は、コーナー博士の窮地を知るやいなや、現地指令官・山下奉文(やましたともゆき、1885〜1946年)将軍のところに直接談判にでかけ、博物館館長の口頭辞令をもらい受ける。
 
さらに 
尾張徳川家19代当主徳川義親(としちか、1886〜1976年)が、山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた。
田中舘らの活動に深い理解を寄せ、その後義親候自らが昭南博物館の総長となり、植物園長と博物館長として日本から二人の学者が新たに赴任してくることになった。
 
役目を終えた田中舘は、昭和18年(1943年)7月、帰国した。
 
昭和20年(1945年)8月、日本軍が降伏し、9月にはイギリス軍が上陸した。
コーナー博士は、イギリス軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者たちは同胞と共に収容所に留まる道を選んだ。

戦後にコーナー博士はロンドンでシンガポール植物園を守った日本人の功績を讃えたが
マスコミは(日本人がそんなことをするはずがないと)信用せず無視されてしまった。

後にコーナー博士は著書を書き、田中舘らの功績を世に残した。

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Botanic.htm

田中舘秀三博士は田中館愛橘(たなかだて あいきつ)東大教授の娘婿である。
田中館愛橘東大教授は世界的な物理学者で、東大の60歳定年制度をつくった人と言われる。

徳川義親は北海道の八雲町(尾張藩の開拓村)をしばしば訪れて、スイス土産の木彫り人形をヒントに、木彫りの熊をつくることを教えた。以後、木彫りの熊は北海道の名産となる。


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