メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.211]
Re: ローソク送電とパン焼き器
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/15(Wed) 09:41
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さんらく亭さん
> 私がよくやったのは一升瓶での米搗き(精米?)や配給される煙草の葉をインディアン
> ペーパーで巻いて巻煙草を作る仕事でした。紙はいろいろ試しましたがコンサイス英和
> 辞典の紙のがいちばん旨いと煙草好きの祖父が褒めてくれました
一升瓶に米を入れて
棒でつついて精米するのは
当時を再現するの映画の場面などで
見たことがあります。
巻煙草を作る件ですが
近所の家にその簡単な機械(?)があり
よく作っていました。
たしか辞書の薄い紙をつかっていた思います。
当時は道端に落ちていたタバコの吸殻を拾い集めて
手製のブレンド煙草をつくっていた人は少なくなかったと思いますが...
[No.210]
Re: ローソク送電とパン焼き器
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/15(Wed) 09:37
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Panさん こんにちは
> これは最近も理科の実験でやりました。
> 塩加減がポイントですね。(^-^)
>
> 正確にはパン焼き器ではなく、パン蒸し器です。 決して焼けるまで温度は上がりません。
> なぜならば加熱されて膨れてくると同時に電気が流れにくくなり、水分が減って更に流れませんから生焼きで終わります。
Panさんは子どもたちに理科教育をしていたんですね。
> >水に電気を流して風呂を沸かしたと言う話も聞いたことがありますが、ほんとでしょうか。
> 風呂の場合は食塩のような電解質を溶かさないと電極だけでは電気が流れませんね。
> 電熱のヒーターを投げ込めば湧きます。
>
> 確実に電気を切断してから入浴しないと感電死しますね。確か死んだ人もありましたよ。
感電死ですね。
白土三平の漫画に
いろんな能力の人間が登場してきて
ある人間は侍に切られそうになると
水中で恐怖を感じ、その瞬間に高圧電流が流れ
侍は水中で感電死するという場面がありました。
作者白土三平の科学的な解説が続きます。
電気ウナギのような能力をもっていたからだと。
Panさんの
電熱のヒーターを投げ込めば湧きます。
というのが
私の紹介した旅行用の携帯湯沸かし器でしょう。
[No.209]
Re: ローソク送電とパン焼き器
投稿者:
投稿日:2010/12/15(Wed) 09:16
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紫竹のさん みなさん こんにちは
> それにつれて思い出したのは、パン焼き器。木の箱の両側にトタン板を貼って、間に小麦粉を練ってベーキングパウダーを入れたものを入れ、電気を流すとパンのようなものが焼けるのです。焼けたら電気が通らなくなるわけで、合理的なパン焼き器でした。
疎開先の同居家庭(1軒の家に2世帯が同居)が器用な人でそのとおりのパン焼き器
でパンらしきものを作ってくれましたがあまり出来がよくなくパンが歯茎に挟まって母親に
文句言ったら酷く叱られたのを覚えています(;_;)
私がよくやったのは一升瓶での米搗き(精米?)や配給される煙草の葉をインディアン
ペーパーで巻いて巻煙草を作る仕事でした。紙はいろいろ試しましたがコンサイス英和
辞典の紙のがいちばん旨いと煙草好きの祖父が褒めてくれました
さんらく亭@甲子園
[No.208]
Re: 一クラス80人。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/15(Wed) 00:14
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男爵さん、あやさん。
> これを読んで
> 岩手大学工学部の歴史を思い出しました。
> 終戦とともに進駐軍に校舎を明け渡さなくてはならなくなり
> かわりに学校関係者は 町はずれの旧陸軍の兵舎に移転させられました。
>
> 学生は勉強するところではなく、教授たちも研究するには劣悪の環境におしこめられ
> 当時の思い出を読むと、ノミとシラミに悩まされたそうです。
進駐軍が駐留した都市では多かれ少なかれ接収の憂き目にあったようですね。
私たちが入った旧工員宿舎ではその様な事はありませんでしたが、DDTのスプレー缶を進駐軍の兵士から貰ったのを覚えています。
あや さん。
> やはり疎開をなさったんですね。学校からは「集団疎開」個人では「縁故疎開」
> と言ったのでしょうか。
そうですね、集団疎開と個人疎開と言っていました。終戦の玉音放送は疎開地のラジオの有る家の前で聞きましたが雑音が多く良く聞き取れませんでしたが、周囲の大人達が日本は戦争に負けたと言って大騒ぎでした。
国民学校の5年の4月からは授業は殆ど無く食糧生産の為の農耕作業ばかりで疎開するまで続きました。其の為何処でもでしたでしょうが学校の校庭は隅から隅まで耕され耕す個所が無くなると、山裾に行き其の周辺一帯を開墾したものです。
今にして思えば、子供だけで耕した畑に薩摩芋やジャガイモでしたが良くぞ育てたものだと思います。
〜〜 昭 〜〜
[No.207]
Re: ローソク送電とパン焼き器
投稿者:Pan
投稿日:2010/12/15(Wed) 00:01
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紫竹のさん、みなさん こんにちは
>戦後すぐは工場などが止まっていたせいか、結構電気はあったように思うのですが、しばらくすると(と言ってもいつごろかは覚えがない)電気の供給が足りなくなり、時間を限ってロウソク送電と言って、電圧を下げて送電するようになりましたね。ぼやっと光る灯りの周りに集まっていた記憶があります。
電圧を半分近くまで下げたそうですね。 それでも停電よりは良かったです。
>それにつれて思い出したのは、パン焼き器。木の箱の両側にトタン板を貼って、間に小麦粉を練ってベーキングパウダーを入れたものを入れ、電気を流すとパンのようなものが焼けるのです。焼けたら電気が通らなくなるわけで、合理的なパン焼き器でした。
>
>でも、パンの両側に亜鉛や鉄が溶けだして色がついていましたが、もったいなくて食べちゃったのじゃないでしょうか。
ブリキで作りましたね。 美味しいパンの出来たことがありません。
これは最近も理科の実験でやりました。
塩加減がポイントですね。(^-^)
正確にはパン焼き器ではなく、パン蒸し器です。 決して焼けるまで温度は上がりません。
なぜならば加熱されて膨れてくると同時に電気が流れにくくなり、水分が減って更に流れませんから生焼きで終わります。
>こんなパン焼き器も電気の消費量を増やした一つかもしれませんね。
シュートさせたり、過電流を流しますからヒューズも良く飛びました。
>水に電気を流して風呂を沸かしたと言う話も聞いたことがありますが、ほんとでしょうか。
梅干し用の壺で味噌汁を作ったことはあります。 パン焼きよりは成功率が高かったです。
風呂の場合は食塩のような電解質を溶かさないと電極だけでは電気が流れませんね。
電熱のヒーターを投げ込めば湧きます。
確実に電気を切断してから入浴しないと感電死しますね。確か死んだ人もありましたよ。
***** Pan *****
[No.206]
Re: 戦争孤児3
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/14(Tue) 21:58
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> みなさん、これで戦争孤児を終わります。「またぁー」と言わずにお読みください。
あやさん、どうもありがとうございます。
また何か思い出したら お願いします。
とりこぼしがないように。
> そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
> とだった。東京オリンピックの年かと今思う。
では
あやさんはお母さんと死別してから
しばらくはお父さんとは一緒だったのですね。
>そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
とだった。東京オリンピックの年かと今思う。
> 父の形見は病院からの手紙、何百通あるだろうか古くなってしまっているが、
> 今パソコンに打ち込んでいる最中なのだ。
> 空襲に焼けし我が家や終戦忌
> 飽食といふ字の重終戦日
> 語りつぐすべを探らん終戦日
> 編み直す毛糸は父のこげ茶色
> 若き日の父の匂ひの祭来る
> 身ほとりに考と妣ゐて虫を聴く
私ごとながら
昭和39年8月は横浜の丘の上と調布の多摩川の河原で暮らしました。
ただただ暑かったという思い出だけ。
北海道育ちの私は東京暮らしはできない、そう思ったのでした。
[No.205]
戦争孤児3
投稿者:
投稿日:2010/12/14(Tue) 21:46
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みなさん、これで戦争孤児を終わります。「またぁー」と言わずにお読みください。
父との想い出は、
「○子は字が下手なので、下手でもいいから人が読めるように、ていねいに
書きなさい」がまず浮んでくる。若い頃は教師だったと聞いた。
国から出てきて戦争のために会社勤めに変ったようだ。
そんなことで毎夜のように、筆箱を出すように言われ鉛筆を削ってくれ、カ
バンの中に明日の準備ができているかどうかをチェックしてくれた。
会社は歩いたところにあり、2人の弟や近所の子どもたち数人で隊を組むよ
うにして、父の会社のお風呂に入りにいったものだ。男の子も女の子も一緒
だったから、小学校4、5年だったか、工場の人たちが入る前の午後4時頃の
こと、海かプールで遊んでいるような騒ぎの結果は、大きな湯船のお湯があら
かたなくなってしまうのだ。そのあとのことは知る由もないが、工場の人たち
は困ったのではないか。でも怒られることもなく通った。
そんな父が入院をし、長い病院生活を送った後身罷った。昭和39年7月のこ
とだった。東京オリンピックの年かと今思う。
父の形見は病院からの手紙、何百通あるだろうか古くなってしまっているが、
今パソコンに打ち込んでいる最中なのだ。
空襲に焼けし我が家や終戦忌
飽食といふ字の重終戦日
語りつぐすべを探らん終戦日
編み直す毛糸は父のこげ茶色
若き日の父の匂ひの祭来る
身ほとりに考と妣ゐて虫を聴く
などなど、早く亡くした父、母、祖母の想い出は尽きない。最近でこそ書くこ
とが少なくなったが、ことあるごとに想い出を綴った中から部分を引っ張り出
してみた。
長々と綴ってしまったが、そんなことで「私は戦争孤児の1人だと思っている
のである」
[No.204]
Re: ローソク送電とパン焼き器
投稿者:
投稿日:2010/12/14(Tue) 21:34
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紫竹のさん、男爵さん、みなさん
>
> > 戦後すぐは工場などが止まっていたせいか、結構電気はあったように思うのですが電気の供給が足りなくなり、時間を限ってロウソク送電と言って、電圧を下げて送電するようになりましたね。ぼやっと光る灯りの周りに集まっていた記憶があります。
>
> 私も記憶があります。
> 一瞬、家の中がほの暗くなり童話の世界になったような...
> 実際は心細くなって、はやくもとの明るさにもどればいいと思いましたが。
男爵さんも経験があるとは、私は知らないのに!
>
> > それにつれて思い出したのは、パン焼き器。木の箱の両側にトタン板を貼って、間に小麦粉を練ってベーキングパウダーを入れたものを入れ、電気を流すとパンのようなものが焼けるのです。焼けたら電気が通らなくなるわけで、合理的なパン焼き器でした。
>
> これはほかの本で読んだことがあります。
> たぶん
> 日本のどこから博物館か郷土資料館に展示されているでしょう。
これは覚えています。そんなのが家にもあったような気がします。
どなたががくれたんでしょうね。
>
> > 水に電気を流して風呂を沸かしたと言う話も聞いたことがありますが、ほんとでしょうか。
>
私にはまったくわかりません。
[No.203]
Re: CENSORED
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/14(Tue) 21:31
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さんらく亭さん
しつこいけれど
このとき
米国は
手紙のプライバシーも
創作も演劇もすべてチェックしたのです。
東大の飛行機を作る学科も研究をストップさせたのです。
http://www.aerospace.t.u-tokyo.ac.jp/event/anniv50/50thanniv.html
戦勝国のしたことはそんなものです。
[No.202]
Re: 地主と小作
投稿者:
投稿日:2010/12/14(Tue) 21:28
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男爵さん、こんばんは
>
> 世が世であれば
> あやさんは大地主で大金持ちの大奥様。
とんでもございません。
世が世であれば、私は生まれてこなかった人間です。
戦争があって、生まれてきたようなもの。
それぞれの人生、重いものを背負っています。
> でも
> 人の世話をする、やさしいあやさんは
> 今も多くの人たちの心の支えです。
うれしい言葉をありがとうございます。
昨日の小学校の2年生との会話を聞いていただきたい思いです。
バス停で隣り合った女児でした。
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