[No.7868]
Re: 『九段で、明治の留学生の講演を聞く』
投稿者:男爵
投稿日:2017/05/01(Mon) 19:41
[関連記事] |
>森鴎外と長沼守敬の出会いは
>別に書きましょう。
原敬に会った長沼は、帰国を考える。
貧乏で船賃がなかったから、フランスで造った畝傍艦(うねびかん)が
日本へ廻航されるというので、原に手紙を書いてこの船に乗せてもらうようになる。
そこで帰国の準備を早めにして、貧乏旅行(ミュンヘン、シュトラスブルク、パリ)に出発する。
ミュンヘンで会った鴎外は長沼に自分の肖像写真を贈ったが、写真はミュンヘンのシュヴァンターラー通のヴェルナー工房で写したもので
裏面に「独逸国模那歌府に周遊の記念」とある。
模那歌(モナコ)府とは、ミュンヘンのことである。
緒方惟直の弟収二郎と東大医学部時代の級友だった鴎外は
惟直の妻子が生活に困窮していることを知り、日本の収二郎に伝えたのであろう。
彼等一族は繁昌した病院経営者らしく、収二郎を含む一族をドイツに留学させた。
収二郎たちは1891年秋にヴェネツィアを訪れ、惟直の墓碑に献花した。
このときは、惟直の妻子の所在を突き止められず、いったんドイツに戻った。
(惟直の妻は1890.10.27に35歳で死亡)
その後ベルシェを通じて姪の消息をつかんだ収二郎は、マルセイユで姪と会い
1892年に姪を日本に連れ帰った。
彼女、緒方豊は加陽光太郎を養子縁組して夫に迎え、6人の子供にも恵まれ幸福な半生をおくったという。