子どもの時から今に至るまで、たくさんの本を読んできました。
そこで、みなさんが読まれた本を紹介してください。
元気の出る本でもいいし、楽しい本でもいいし
役に立つ本でもいいです。
電子図書のことでもいいです。
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[No.514]
Re: 東京の六大問屋街
投稿者:
投稿日:2011/12/10(Sat) 18:23
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男爵さん
> かっぱ橋道具街
東京に住んでたころ(昭和30年代)よく行きました
河童かと思ったら合羽でした(;_;)
道具街になった発祥は明治末期と聞きました
道具屋街としては先輩があります
大阪ミナミの千日前道具屋筋
ここは法善寺の千日前から四天王寺への参道沿いに明治十年代に出来たのが
起こりだといいます
世界に誇るべき日本人の技術だと思います
いづれにせよ、道具街の店を見ていると時間を忘れます(^_-)/
さんらく亭@甲子園
[No.513]
東京の六大問屋街
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 15:39
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のぞいてみたい
東京の六大問屋街
婦人画報社
日暮里菓子玩具問屋街
東京日暮里繊維街
かっぱ橋道具街
馬喰町・横山町問屋街
浅草橋・蔵前問屋街
築地場外市場
かっぱ橋道具街
食品サンプルの東京美研
ウィンドウ・サンプルのまいづる
朝の築地場外市場
もう一度行ってみたくなった。
[No.512]
遠藤実
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 15:07
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人間の記録158
遠藤実
日本図書センター
ラジオ深夜便で遠藤実の作曲した曲を放送していたので...
遠藤実が東京で流しをしていた頃は貧しかった。
三鷹の定食屋で一番安い定食をいつも食べていた。
かつ丼や親子丼は食べたくても、とても手が出ない。
あるとき、彼は注文していないかつ丼が目の前に置かれる。
それは女店員のおごりだった。のちに妻になる節子の好意だった。
昭和27年 妻と二人で貧しい長屋で辛抱しながら作曲した「お月さん今晩わ」がヒットする。
昭和51年 同棲してから26年たってようやく結婚式をあげる。
昭和38年 舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットする。
強引に弟子入りした千昌夫はB面の「星影のワルツ」を足で歩き回って有線放送に売り込んでいたのだ。
「夢追い酒」と「北国の春」は発売後1年たって売れ出した。
姉さん女房は一緒に暮らして間もなく妊娠したが親子三人で生活する余裕がなく中絶してしてしまった。
それから妻に子どもは生まれなかった。
彼は糟糠の妻を一生大切にする。
弟子の千昌夫は子どもの生まない妻と離婚して多額の慰謝料を払った(そのあとバブル崩壊で大きな借金をしたから、よいときに離婚したのかもしれない)。
[No.511]
Re: わが人生の歌がたり
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 11:01
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> 五木寛之が深夜ラジオ便で
> 語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。
> 五木の父親はさらに出世して、平壌の師範学校の教官となる。
> 五木は山手小学校に通う。
昭和20年に平壌の一中になんとか入学する。
戦局は厳しくなり、女の直感で母親は「連合艦隊の司令長官まで死ぬんじゃもう日本は負けるんじゃないかしら」と言う。そして父に殴られる。
玉音放送、ソ連兵の略奪、家は摂取され下町の銭湯の二階に他の日本人たちと一緒に住む。
9月20日にそれまで病気だった母親は死ぬ。
五木は何もしない父に代わって、弟や妹のためにもソ連軍の将校の家に行って薪割りや掃除をしたりして黒パンや肉の塊をもらってくる。
このあたり思い出したくない話したくない五木も、時間がたってようやくぽつりぽつりと語り出している。
「国境の町」や「雨に咲く花」などが心を支えてくれた。
略奪のソ連兵の思い出の他に、歌の好きなソ連兵の歌う歌「イギリス人は利口だから、水や火など使う。ロシア人は歌を歌い、自ら慰める」が印象に残っている。
たぶん彼らも異国で故郷を思い出していたのだろう。
考えてみれば彼らも異国で働かされた兵士たちだったのだ。
帰国をまつ日本人たちは、昭和初期の流行歌を歌い慰め合っていた。
「野崎小唄」も歌われた。
それからやっと苦労して韓国に入ることができ、引き揚げ船に乗ることができた。
船員たちから、いま内地で流行っている歌だとして「青い背広で」を教えられる。
博多港では検疫のため足留めをくらう。いつ上陸できるだろうと心配する彼らに
船員たちは明るい「リンゴの唄」を教えてくれた。
五木寛之は「かえり船」を聞くと、日本に帰ってきたことを思い出すという。
[No.510]
ドイツ文化史
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 10:24
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ヨーハン・ユンカー:ドイツ文化史、サイマル出版会(1975)
全領域にわたる100年の創造的成果の集大成!
この本が出版されてから十数年で
ドイツ統一がなされた。
この本は貴重な資料がもりこまれているから
今も参考にされていると思われる。
[No.509]
Re: 藤堂明保「中国名言集」上・中・下
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 10:20
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Kenzaさん
> 中国の歴史には「断絶」があるそうですね。歴史のなかの中国と、現在の中国とは、
> http://homepage3.nifty.com/ryuota/china.html にあるように、別物のようです。
私もさきほど、ここを見ましたが、下記のことは他の本にも書いてあることです。
& 夏王朝は東南アジア系民族が、殷は北方狩猟民が、周は西方の遊牧民が、それぞれ中原の地にやってきて建てた王朝だとしている。
& ちなみに、秦も西方民族系である。
& まあ、大昔に多種多様な民族が混じり合ってできたのが「漢族」で、そのハイブリッドな文明が「中国文明」なのだ、と言っても別にかまわない。
ある人は少数民族の文化習慣を捨てたのが漢民族だと言っています。
そして
いまだに先祖の風俗文化を捨てずに守っているのが少数民族です。
シルクロードから伝わった文化文明で中国の民は育ったのです。
麦も西から。麺文化は製法がルーツ。 まあ仏教もそうでしょう。もしかするとアーチ技術も西から(アーチはメソポタミアで発生した)。
ついでにいえば朝鮮半島も中国大陸も、そういう文化を日本に伝えた通過地であって、もしかしたらオリジナルなものは少ないかもしれません。
& 問題はその後、中国文明が大きな断絶を経験している、ということなのだ。
......
& 五胡十六国時代のような大幅な住民の入れ替わりがあったのかもしれない。
& その後の、遼・金・元・清という「征服王朝」についてはもう触れないが、支配層が替わってハイ終わり、で済まなかったことだけは容易に推察できる。
& 結局のところ、「中国文明」で不変なものとしては、「漢字」ぐらいしか思いあたらない。
たえず異民族との混血や交流があってできてきた(本当はない)漢民族。
というのが、他の本にも書いてある事実のようです。
ごった煮の中国文化。 中華思想は世間知らずの自己中心的な考え方。
[No.508]
行ってみたい東ドイツ
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 10:04
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サイマル出版会編:行ってみたい東ドイツ、サイマル出版会(1983)
パノラマDDRライゼビューロー協力の本
ドイツが東西ドイツに別れていたころの東ドイツの観光案内的の本。
この本で紹介されているインターホテルは4つだけ。
メトロポール・ホテル ベルリンの中心部にある
バラスト・ホテル ベルリンのアレクサンダー広場近くにある
メルクール・ホテル 国際見本市の町ライプツィヒの中心部にある
エルフルターホーフ・ホテル エルフルト駅の向かいにある
この本の当時には、もう東ドイツと西ドイツの経済格差はあきらかで
たとえば東ドイツの橋や建物は(修復の必要性が感じられても)古いままであり、いっぽうの西ドイツの建物も橋も新しいものがどんどん作られていった。
東ドイツで一番ものが豊富であるはずの東ベルリンのデパートにも、めぼしい商品は少なかった。ただ東ベルリンは物価は安かったが。
ドイツ統一から二十年たった今
当時の東ドイツのことを知る貴重な資料となった。
[No.507]
Re: 藤堂明保「中国名言集」上・中・下
投稿者:
投稿日:2011/12/10(Sat) 09:51
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> 長きにわたり日中文化交流協会の会長を務めた井上靖でしたが
> 彼の家族が「井上は、記憶のなかの中国しか見ないで、現実の中国を見ていない」と述べていましたね。
中国の歴史には「断絶」があるそうですね。歴史のなかの中国と、現在の中国とは、
http://homepage3.nifty.com/ryuota/china.html にあるように、別物のようです。
[No.506]
にっぽんラーメン物語
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 09:47
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小菅桂子:にっぽんラーメン物語
日本で最初にラーメンを食べた日本人は水戸黄門である。
東京ラーメンの元祖は来々軒である。
札幌ラーメン発祥の店は竹屋食堂である。
喜多方ラーメンの元祖は源来軒である。
小菅桂子については
新横浜ラーメン博物館に紹介資料がある。
[No.505]
わが人生の歌がたり
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/10(Sat) 09:20
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五木寛之が深夜ラジオ便で
語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。
五木寛之は昭和7年に九州で生まれ
地方の師範学校出の父が新天地を求めて
一家で朝鮮半島に渡る。
昭和7年の歌は「影を慕いて」である。これが彼の誕生のBGMだった。
朝鮮の全羅道の淋しい村に住んでいたので、そこでの日本人は巡査と五木の家族だけだった。
村の子どもたちと遊んだので五木は知らず知らず朝鮮語を覚えた。
あとで彼はソウル出身の韓国人女性に知っている言葉のいくつかを言うと、彼女は「それは上品な言葉ではありませんね」と言う。彼女はソウルの上流階級の出身だった。
「アリラン」と「トラジ」を朝鮮語で歌っていた五木。
五木が覚えている青空に舞うブランコの上のチマチョゴリと、パンソリを朗々と語るおじいさん。
いつか、あのおじいさんのように、物語を語ることで人々を感動させたり喜ばせたりする仕事をしたいと思った。
やがて父親は検定試験に合格し、ソウルの南大門小学校に勤務する。
母の好きな歌は「城ヶ島の雨」や「花嫁人形」だった。
そのころ国家総動員法が成立(昭和13年)、「雨のブルース」や「暗い日曜日」が印象に残った。
「暗い日曜日」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_c77a.html
五木の父親はさらに出世して、平壌の師範学校の教官となる。
五木は山手小学校に通う。
昭和15年の「湖畔の宿」、おなじく高峰三枝子が歌った「南の花嫁さん」
ギリシャの哲学者プラトンの言葉
「歌や音楽は恐ろしいものだ。聞く人を無意識のうちに感化して、その人の感受性や思想まで買えてしまう」
五木のような子どもたちも、「加藤隼戦闘隊」や「予科練の歌」などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも1日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになった。
「麦と兵隊」は軍歌ではあるが、何度聴いても哀愁にみちたいい曲である。
悲壮美というか、「平家物語」の世界を連想させるような名曲である。
驚くのは歌詞の内容で、士気を高揚させて戦地へ向かうのではなく、負傷した友を背中に背負って、黙々と進んでいく光景である。なんとも言えない兵士の鬱屈した感情がこもっていて、単なる戦意高揚歌ではない。
歌に国境はないとか政治的イデオロギーはないというが、そんなことはない。
歌にも国境はあるし、時代ごとの政治とか状況が深くかかわっている。
でも歌っていた私たちには、その歌声がイデオロギーとは関係なく
とにかく懐かしいものとして聞こえてしまう。これが歌の怖いところであるし
いけないと知りながら、懐かしい気持ちにさせられてしまう。
そこが、歌の「憎い」ところでもある。
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