私が読んだ本 
(期間:2011.11.1 - 2011.12.31)

 子どもの時から今に至るまで、たくさんの本を読んできました。
 そこで、みなさんが読まれた本を紹介してください。
 元気の出る本でもいいし、楽しい本でもいいし
 役に立つ本でもいいです。
 電子図書のことでもいいです。


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  • [No.322] Re: 震災歌集 投稿者:   投稿日:2011/11/30(Wed) 15:42
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    男爵さん、

    > 新しい歌集
    > しかも
    > 95歳とは!!!

    この方は、元NHKのプロデューサーの方で、絵を描き、短歌を作りと
    幅広く活躍なさっています。

    新しい本をお読みになり、送ってくださいます。
    お逢いして、絵画展を観たり、食事したあとには必ず、書店へ足を運ばれます。


    [No.321] Re: ゲーテ「イタリア紀行」 投稿者:   投稿日:2011/11/30(Wed) 14:19
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       男爵さん、みなさん、こんにちは。

    > ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島などを訪れ、結局2年もの間イタリアに滞在していた。
    > ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。

    かれがいかにイタリア語が上手だったかは、かれ自身の書き残した文章で、それと察しられます。かれゲーテは、マルチェジーナを通過中、そこで見つけた城塞をスケッチをしたのを咎められ、それが瞬く間に大事件に発展しました。

     やがて奉行が現れ、裁きが始まります。ゲーテはそのとき少しも慌てず、得意のイタリア語で古代ローマの歴史から説き起こし、堂々の論陣を張ったのです。しかし、孤軍奮闘で形勢不利に傾き掛けたとき、天の助けか、つおーい助っ人が現れたのです。偶然群衆の中にゲーテの生地、フランクフルトで働いていた男がいたのです。これが幸いしてかれは窮地を脱したのですが、その間不利な外国語で、滔々と弁明を続けたゲーテは、やはり大したものだと思います。

    > ローマ近郊におけるゲーテの肖像(ティシュバイン画)

     ゲーテと云えば、この絵ばかりが出てきますね。ただ左足がチョット変で、そういわれて見るとやはり変です。(-_-;)


    [No.320] Re: 震災歌集 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 11:00
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    桐子さん、 あやさん、こんにちは。

    > 「震災歌集・長谷川櫂」、お読みになったのですね。

    > >流れいく我が家を山より見ていたとメールをくれし友をいたみぬ あや

    > あやさんは、俳人でもいらっしゃるし、その上紛れもない歌人です!
    >
    >          ☆
    >
    > 「浜に住む願いはあれど仮設なる此処に届かぬ波の音かも  桐子」

    > 彼女の家は浜辺にあったのですが、身一つで逃げ延びただけと
    > 書いてありました。
    >
    > 彼女に代わって、久しぶりに短歌らしきものを、つくりました。

    こうして すらすらと出てくるのは
    すばらしいことです。

    仮設住宅にも冬が来ます。
    きっと寒いことでしょう。

    まだ行方不明者がたくさんいます。
    仕事とはいえ、捜索を続ける人たち。

    それでも復興は少しずつ進んでいます。


    [No.319] Re: 震災歌集 投稿者:   投稿日:2011/11/30(Wed) 10:23
    [関連記事URL:http://http://homepage3.nifty.com/kiriko/

    あやさん、こんにちは。

    「震災歌集・長谷川櫂」、お読みになったのですね。

    その長谷川櫂さんが選者でご参加の≪角川俳句賞≫に
    今年は長瀬十悟さんの「ふくしま」が選ばれました。

    その受賞作品から5句。

    ・戻らない子猫よ放射線降る夜
    ・激震や水仙に飛ぶ屋根瓦
    ・流されてもうないはずの橋朧
    ・鳥雲にフクシマデマタアイマセウ
    ・なゐ過ぎし百闢y手に小鳥の巣

    など、心を揺さぶられます。

    >流れいく我が家を山より見ていたとメールをくれし友をいたみぬ あや
    >
    >今、こうして書きながら浮んだ自作の短歌である。

    「流れいく我が家を山より見ていたとメールをくれし友をいたみぬ」

    あやさんは、俳人でもいらっしゃるし、その上紛れもない歌人です!

             ☆

    「浜に住む願いはあれど仮設なる此処に届かぬ波の音かも  桐子」

    定年後、帰郷した職場の同僚から便りをもらいました。
    今は町はずれの仮設住まいだそうです。

    彼女の家は浜辺にあったのですが、身一つで逃げ延びただけと
    書いてありました。

    彼女に代わって、久しぶりに短歌らしきものを、つくりました。

    恥ずかしいです。


    〜・〜・〜
     桐子
    〜・〜・〜


    [No.318] Re: 青い鳥 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 09:06
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    まやさん、みなさん  こんにちは

    > この劇の中で
    > 動物たちが人間に反乱を起こす場面があります。

    読み直すと、動物の他に樹木もチルチルとミチルに襲いかかります。

    > 実は飼い猫が、かげにまわって、そそのかすのです。
    > チルチルとミチルの危機一髪、そのとき飼い犬が助けに走ってきます。
    > しかし、チルチルもミチルも猫の悪だくみに気がつかない。猫が犬にいじめられると聞いて犬を叱ったりします。

    犬はチロ、猫はチレットと呼ばれていました。


    [No.317] 徒然草/先達はあらまほしき 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 08:50
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    画像サイズ: 639×412 (26kB)
    『徒然草』 第52段.仁和寺にある法師

     仁和(にんわ)寺に、ある法師(ほふし)、年寄るまで、石清水を拝(をが)まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

     さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

     すこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。

    三木紀人氏による現代語訳

     仁和寺(にんなじ)のある法師が、年をとるまで石清水を拝んだことがなかったので、それを残念に思って、ある時、思い立って、ただひとり、徒歩で参詣した。ところが彼は、極楽寺や高良(こうら)社などを拝んで、これで願いがかなったと思い込んで帰ってしまった。

     そして、仲間に向かって、「長年思っていたことを、ようやく果たしました。評判以上に尊いお宮でした。それにしても、あの時に、参拝の人たちが皆、山に登って行きましたが、山の上に何事があったのか。気にはなったけれど、神へ参るのが目的なのだと思って、私は山の上までは見物しませんでした」と言ったそうだ。

     少しのことにも、案内者は持ちたいものである。

    非常に有名な段であるが、兼好の時代の「石清水八幡宮寺」は現在の「石清水八幡宮」より遙かに壮麗で、山下の極楽寺・高良社も相当に立派だったことを考慮しないと、この僧侶が勘違いした事情、またその勘違いについて当時の人が感じたであろう滑稽さが充分に理解できないように思われる。
    http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-52-iwashimizu.htm

    ライン川を渡って
    ドイツからフランスのエルザス地方のコルマーに行った。

    帰ってからパンフレットを読むと
    幼いシュヴァィツァーが訪れた町の広場のことが書かれてあった。

    コルマーには、かつて修道院であったウンターリンデン博物館に
    有名なグリューネワルトの「イーゼンハイムの祭壇画」がある。
    これを見に行ったものだった。
    この博物館の宗教画やキリスト教関係の彫刻は、フライブルクにあるものと同じだった。

    あのアルベルト・シュヴァイツァーが子どものとき、コルマーの町の広場で見た
    黒人の彫刻。日本のシュヴァイツァーの伝記の本には必ず写真が載っているのだが
    この彫刻は今はない。
    子どものシュヴァイツァーがこの悲しげな黒人像を見て、大きくなったらアフリカに行って
    現地の人びとを助けてやろうと決心した広場。
    この黒人像は、この町の出身のフランスの将軍を讃えるため、やはりこの町の出身の彫刻家
    バルトルディ (Bartholdi)に作らせたものである。
    たぶん多くの日本人が訪ねていって、シュヴァイツァーのことを聞いたり、黒人の彫刻を
    見たりするので、フランスの植民地のことにふれたくなかった現地の人が
    考えた末に撤去したのであろうか。

     最近読んだ本で、このバルトルディの作った像は第二次大戦の時ドイツ兵が壊したということを知った。


    [No.316] 山田和:知られざる魯山人 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 08:33
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    北大路 魯山人、本名は北大路 房次郎は
    篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

    北大路 魯山人のことは
    コミック「美味しんぼ」で知った。

    1883年(明治16年)、京都府京都市上賀茂(現在の京都市北区)に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。

     父親は自殺する。妻が不義の子を産もうとしていたからという。
     こうして生まれたとき、すでに父はいなく、実の父のことは謎のままである。
     母は上賀茂駐在所の服部巡査に相談し、琵琶湖西岸の坂本の農家の里子に出された。
     服部巡査の妻もんがその家を訪れたとき、赤ん坊だけがかごの中におかれて
     おしめも替えられていなかった。不憫に思ったもんは赤ん坊を連れて帰った。
     その後、服部巡査夫妻はいなくなり、彼らの養子茂精とその妻やすの手で
     この赤ん坊は育てられる。
     茂精と妻やすの間に子どもが生まれると、やすの母親から赤ん坊の房次郎は
     冷たい扱いを受ける。
     こうして養家にいられなくなった房次郎は福田家にもらわれる。
     (肉親の愛を知らずに育った幼い子どもは、養父福田に好かれるようおいしい食べ物の料理を覚えてほめられるようになったという)

    6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校(現・京都市立御所南小、新町小)を卒業。

    京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出る。

    1903年、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞となる。
    1905年、町書家・岡本可亭の内弟子となり、書道や篆刻を学んだ。

    1915年、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。
    長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。
    1921年、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。
    1925年3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を借り受け、会員制高級料亭とする。

    1927年には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。
    1936年、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年の空襲により焼失した。
     この本の著者によると、温厚な中村竹四郎も傍若無人な魯山人のふるまいに耐えかねて、また経営が赤字になったこともあって、もっと協力的な態度をとってくれるよう諌めるつもりが、決定的な別れとなってしまったと書いてある。

    戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。

    この本に
    イサム・ノグチ・山口淑子夫妻が出てきたのには驚いた。
    二人は魯山人に歓待されたのだった。


    [No.315] Re: ラ・マルセイエーズ物語 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 07:52
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    > 吉田進:ラ・マルセイエーズ物語、中公新書1191
    >
    > ラ・マルセイエーズは、フランスの国歌である。

    この歌の冒頭句についてよく言われるのが
    モーツァルトのピアノ協奏曲第二十五番ハ長調K503である。
    第一楽章の第二主題が似ているというのだ。
    モーツァルトのほうが六年前なので
    おそらく影響を受けたのだろう。

    この著者は偶然似てしまったのだと書いてあるが
    そういうことはありえない。
    もしかするとモーツァルトのピアノ協奏曲とラ・マルセイエーズの共通の
    手本となった曲があるのかもしれないが
    その場合はどういう曲なのか明らかにする必要があろう。

    つまり
    オリジナルということは音楽の世界でもむずかしいことで
    だいたいは他の先人の作品の真似なのだ。
    本人が意識してもしなくても、頭の中にある先人の作品の影響を受けるのである。


    [No.314] ラ・マルセイエーズ物語 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 07:20
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    吉田進:ラ・マルセイエーズ物語、中公新書1191

    ラ・マルセイエーズは、フランスの国歌である。

    「...不浄なる血が、我らの田畑に吸われんことを...」
    という戦闘的な歌詞がオリンピックでテレビ中継を通じて
    全世界が注目する中で、いたいけな女の子の口から聞かれることに
    日本人だけでなく、当のフランス人の中にもショックを受けたものは少なくないという。
     こんな戦闘的な国歌に比べると日本の国歌は平和なもの。

    この歌は、フランス革命のとき
    ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットとその家族、さらに貴族たちを救おうと
    オーストリアとプロイセンの軍隊がフランスに迫ってきたとき
    ストラスブールでルジェ・ド・リール大尉が出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したものである。
    このときつくった歌のタイトルは「ライン軍のための軍歌」だった。
    (それは1792年4月25日から翌26日の夜にかけてのことだった)

    その後、テュイルリー宮襲撃の際、パリ入城を果たしたマルセイユ義勇軍によって歌われたので、「ラ・マルセイエーズ」という名前になった。 マルセイユでつくられたものではない。

    この歌が国歌になるまでには色々な歴史があった。
    だいいちロベスピエールの運命でもわかるように
    時代の移り変わりは甚だしく、この歌の作者ルジェ・ド・リールも牢獄に繋がれ
    まかりまちがえば死刑となっていた。 彼は運よく生きのびたのだった。

    第一帝政から王政復古にかけては、「暴君(専制君主)を倒せ」という内容であるために禁止されていたが、1830年の7月革命以降は晴れて解禁となりと
    この歌も時代の運命に流されていった。

    1830年にはベルリオーズが独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲をつくった。

    チャイコフスキーの「序曲1812年作品49」では、帝政ロシアに侵攻するナポレオン軍の象徴として引用されている。
    (ナポレオンはこの歌が嫌いみたいでそのときは国歌ではなかった。チャイコフスキーのこの曲は、最初優勢だったナポレオン軍がしだいに劣勢になり、やがてロシア軍に負ける様子を音楽でわかりやすく表現しているため、世界各国で演奏されたが、フランスだけは演奏されない)

    また、ビートルズの"All You Need Is Love"(愛こそはすべて)のイントロにも使われている。

    ラ・マルセイエーズの作者は
    ルジェ・ド・リールが姓で、クロード・ジョセフが名である。


    [No.313] そしてフェルメール 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 05:54
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    画像サイズ: 628×755 (49kB)
    > ローマ近郊におけるゲーテの肖像(ティシュバイン画)
    >
    > この絵を見にフランクフルトの美術館に行ったら
    > フェルメールの地理学者があった。

    マイン川沿いのシュテーデル美術館
    実はフランクフルト駅から橋を渡って少し歩けば行かれる所だったが
    ドイツにいたときは、この場所は知らなかった。

    数年前にやっと行ったのだが
    何人かの人が美術館内で写真をパチパチ撮っていたから
    私もみんなにならって写真を撮っていたら
    怖い顔をしたドイツ人がやってきて「許可証は持っているのか」と聞かれた。

    持っていないというと、受付で買ってこいと言われた。
    そこで入り口の受付の所まで行って許可証を買ってきた。
    約500円だった。


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