地震などの天災を語る 
(期間:2013.5.1 - 2013.6.30)

「天災」とは地震・台風・雷・洪水・津波などの自然災害ですが
天災は忘れた頃にやってくると言われます。
みなさんの体験や伝聞、それに対策や後始末なども、お待ちしています。


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  • [No.142] 人が死ぬということ 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/23(Thu) 15:10
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    > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    思い出までは流させない

    津波で壊滅した岩手県大槌町の避難所の一つ、中央公民館の一角では
    1千枚を超す写真が床に展示されている。
    子供の運動会、結婚式、旅行、恋人たち...。
    震災前の日常が、見る者の胸を打つ。
    がれきの中から写真やアルバムを発掘し、展示している同町の飲食店経営、沢田直之さん(68)は、「津波は人も家も飲み込んでしまったが、思い出までは流させない」と力をこめる。

    「あ、これおばさんだ!」
    展示された写真を見に来た娘の言葉に、父は「ほんとだ」とにっこり。
    写真は妹の成人式のときの写真だった。
    「家が津波で壊れたときに家に置いてあった写真も流されてしまった。妹は今日は一緒に来られなかったけれど、明日にでも渡したい」

    写真の展示を始めた沢田さんも、津波で店舗兼自宅を流され、中央公民館で避難生活を送る。
    津波から数日後、がれきの山と化した自宅周辺を歩いた。

    「旅行や孫の運動会の写真を収めたアルバムが見つかればと思って」見つけた泥だらけのアルバムを避難所に持ち帰ったが、目当てのものではなかった。

    しかし、持ち主が現れればとアルバムを避難所の一角に置いたところ、見に来る人が絶えなくなった。


    私も震災後に現地を回ったとき
    津波で家がすっかりなくなった土台のところに
    置物や教科書や子供の遊具やいろいろな思い出の品々を見つけて
    思わず写真に撮ってきましたが、もちろんどこにも公表していません。

    津波の恐ろしさ、人間の無力さ、生活していた人々の楽しかったころを思わず考えてしまうのでありました。

    訂正
    No.140 と  No.141
     これらの記事のタイトルは
    「人が死ぬということ」でした。


    [No.141] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:人が死ぬということ  投稿日:2013/05/23(Thu) 10:20
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    > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    妻子失った市職員「負けないで」のメッセージ

    東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関窓ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。

     「最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。
     いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。
     被災されたみなさん
     苦しいけど
      負けないで !
       名取市職員 S」

    書いたのは名取市職員の西条卓哉さん(30)。
    津波で妻が行方不明になり、8ヶ月の長男を失った。

    大震災の後、市役所は地震で混乱し、職員としてさまざまな対応に追われ、12日未明にようやく自宅マンションに戻ったが、エレベータは止まり、部屋に入ると2人の姿はなかった。

    妻の実家を目指しながら、一晩中探したが、実家も建物もなくなっていた。

    翌日夜に、妻の母とようやく出会えた。
    憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの...」という。

    息子とみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜身元を確認した。
    肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった。
    安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。


    [No.140] Re: がれきの中で本当にあったこと 投稿者:人が死ぬということ  投稿日:2013/05/23(Thu) 09:59
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    > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    がれきの海「捜しようもない」

    宮城県石巻市の被災地で流れる涙をぬぐおうともせず、くすぶるがれきの中をさまよう男性がいた。

    男性は丹野徳雄(54)さん。妻が石巻市南浜で被災した。
    幾度も幾度も津波と引き波を繰り返した一帯は、押し流された車の爆発で火災が発生。
    数日間燃え続けた火が治まった3月16日、見渡す限りの "がれきの海" に初めて足を踏み入れた。

    「体がねえなら何か見覚えのあるものねえかと思ったけど、これでは捜しようもないよね...」

    靖子さんは2月に、この地で洋服の直し店を始めたばかりだった。
    3人の子供を育てながら家事の合間に自宅で続けてきた仕事で、店を持つのが長年の夢だった。

    10坪ほどの店の土台。明るい緑色に塗られたコンクリートの壁がわずかに残っていた。
    2人で作った店の面影はこれだけだった。周囲の家も車もすべてが押し流され、近くの高台のふもとに打ち寄せられて焼けこげていた。

    妻の店からわずか50メートルほどの高台の上に自宅はある。

    「ちょっとのことで助かったはずなのに、5分走れば...。悔しいよ...」
    靖子さんとは29年間連れ添った。
    「今はばあちゃんだけど、若いころはめんこかったですよ...。ものごとをはっきり言う女で、しょっちゅうケンカしてました。あまりにもむごすぎるよね。これから仲良くしようと思っていたのに...」


    [No.139] しょうがなかんべ 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 13:08
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    > 船橋 洋一・著
    >  カウントダウン・メルトダウン 上巻 (2012.12)
    >  カウントダウン・メルトダウン 下巻 (2012.12)
    >
    > http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163761503

    渡辺明(渡邊明)福島大学副学長のもとに結成された福島大学の放射線量モニタリングの試み

    3月15日、副学長室に置いておいたガイガーカウンターがなり始めた。
    副学長の渡辺は気象学者である。
    これは大変だと考えた渡辺は、19日福島大学理工系の教員有志とともに
    大学構内や付属学校園の線量の計測を始めた。

    23日 政府がSPEEDIの試算結果を公表した。
    NHKのニュースが、米国エネルギー省の国家核安全保障局(NNSA)が米軍機による放射線調査結果を公表した、と伝えた。

    それによると、福島第一原発から北西に飯舘村あたりまで、高濃度ゾーンが広がっているという。

    空からのこの計測値が実際、正しいのかどうか、を地上から点検したいという思いもあった。

    今度は福島県全域のモニタリングを実施することにし、13〜14人の仲間とともに「福島大学放射線計測チーム」を立ち上げた。

    25日から4日間かけて15台のタクシーに分乗して、県下各地を測定した。

    放射線測定チームは当初、その結果を米サイエンス誌に緊急投稿しようと話し合っていた。

    しかし、地元の住民にとってモニタリングの測定結果は重大な関心事のはずである。
    渡辺が言うように「天気予報をやって気温がどうのこうのというようなデータではない」

    まずは、首長にその結果を報告するのが地元の大学としての責任ではないか、サイエンス誌への投稿はその後でよい。

    渡辺は計測をした地域の各自治体の首長に最初に連絡した。
    どこよりも気になったのが飯舘村だった。

    3月27日、渡辺は飯舘村に行き、菅野村長に会い、計測結果を報告した。

    菅野村長は重たい面持ちで聞いていたが、やりきれないというふうに言った。
    「何回、私たちを動揺させたら気がすむんだ」
    「線量が高い、水が飲めない、土壌が汚れている。もう十分にわかっています。データはいただきたい。しかし、発表する必要ないんじゃないですか」

    福島県の職員が菅野村長の脇に座っていたが、彼は渡辺に言った。
    「もういい加減にやめていただきたい」

    渡辺は大学に戻り、放射線計測チームのメンバーに、一部始終を報告するとともに、言った。
    「研究業績を競ったり、争ったりしているわけではないのだから、公表はしばらく待ちましょう」

    渡辺には、菅野村長が村全体の避難に強く抵抗する立場と理屈が痛いほどよくわかっていた。
    渡辺自身、学内でも圧力にさらされていた。
    こんな線量の高いところになぜ、大学を置いておくんだ、大学を移転させよ、という圧力である。

    放射線量をめぐっては、政府が信用されない、文部科学省が信用されない、データが信用されない。
    そういう状況になりつつあった。

    どうしたら、信用されるデータを住民に与えることができるか。
    地元の県の大学として何か役割を果たせないか。
    いささかでもお役に立てたかな、と感じたのは、浪江町への報告だった。

    渡辺のモニタリングチームは、浪江町役場が避難していた浪江町津島で毎時70マイクロシーベルトを測定した。

    渡辺は、浪江町の避難先の二本松市の東和支所を訪れ、上野副町長に報告した。
    浪江町は20キロ圏内からの避難指示の際、20キロ以遠の津島に移転したのだが、そこが高い放射線量ゾーンとなっていたわけである。

    その後、上野副町長は福島大学の副学長室を訪れ、さらにデータについて問い質すとともに、放射線の検査体制や汚染状況や健康手帳の発布などについて意見を求めた。

    浪江町は役場も町民も12日に20キロ圏外の津島に移転した後、15日には津島から二本松糸に再度避難していた。
    ただ、多くの町民が津島からの避難を拒み、そこで生活をしていた。

    町役場はその後何度か、町民に避難を勧告したが、彼らはなかなか応じない。
    そこへ、福島大学のモニタリングチームの調査結果が提供されたわけである。津島からの避難を改めて勧告する必要が出た。

    12日、福島県は独自にモニタリングしたのに、そのデータは浪江町には伝えられなかった。
    上野はそのことが許せなかった。
    「本来なら、最初の避難の時に、こういうデータがほしかった」と思った。

    渡辺たちのモニタリング結果も、もっと早く提供されていれば、15日までの避難の時に役立っただろうに、と残念な気持ちがした。
    しかし、2週間経っても津島が依然、高い放射線量にさらされていることを渡辺たちのモニタリングデータは示していた。

    上野はそれを手に、津島に行き、住民の説得に当たった。
    上野の話をむっつりと聞いていた住民の一人が重い口を開いた。
    「地元の福島大学の先生が言ってるんじゃ、しょうがなかんべ」

    上野は、それを聞きながら
    「避難には役に立たなかったが、被ばくしたという認識を住民に改めて感じてもらうことができた」と意を強くした。
    上野は渡辺に電話をかけてよこして、言った。
    「しょうがなかんべ、の一言で、みんな納得してくれました」

    学者の測定データをそのままにして公表しなかった福島県や飯舘村
    それに対して、データを公表して住民に納得させた浪江町
    それぞれの行政側の判断であろうが、いままでにも原発事故を隠してきた電力会社だけでなく、県も政府も何か考えがあってデータを隠すようである。

    (放射線量データについては、どういう計測や予測がなされたのか、そしてその結果はどのように使われたのか使われなかったのか、思いつくまま紹介したい)

    福島大学の渡辺明先生
    http://kojingyoseki.adb.fukushima-u.ac.jp/top/details/238
    渡辺先生は
    真面目な研究者で、身の回りの機材を利用して
    学生たちと外を回るなど体を使って気象計測をしてきた先生なので
    この先生の調査結果は信用できる。

    この後、某学会で会ったとき、上に書いた話は聞かなかったのだが
    放射能汚染の心配で福島大学の受験生が減っていること
    その対策として受験料無料などの対策を取っていること
    幸い定員割れはしていない等の話を聞いたのでした。


    [No.138] カウントダウン・メルトダウン 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 11:11
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    船橋 洋一・著
     カウントダウン・メルトダウン 上巻 (2012.12)
     カウントダウン・メルトダウン 下巻 (2012.12)

    http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163761503


    こちらは、ある書評
    http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013031000004.html
     東京電力福島第一原子力発電所の事故は、当事者がどのように行動したのか、明確に記録されるべきである。本書はその役を担った書である。
     「木を見て、森を見ることが苦手」な菅元首相、「言われたことを仕方なくやる組織文化」の東電など当事者たちの体質はいかにも日本的システムそのものだ。
     国民への情報発表、住民の避難をどの範囲に決定するか、その住民保護に苦悩する市町村長たちの怒りと涙、こうして現実が明らかになってくると、まるで太平洋戦争指導部の内幕に通じていると思えるほどだ。
     関東軍の体質を持つ東京電力、権力を振り回すものの現実を制御できない大本営に似る政府と政府関連の原子力機関。
     ルース米駐日大使ほかアメリカ側は、情報開示の不徹底に、「日本は支援される作法を知らないのではないか」と不満を漏らす。
     その中で、東電の吉田昌郎元所長が示した勇気や決断、「日本のことは日本が守る」との主体性を自覚した若手の官僚、政治家たちの使命感は特筆に値する。


    ところで
    これから、この本の中から
    いくつかの話題を紹介したいと思います。


    [No.137] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 09:17
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    > > > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    黙して任務全う 自衛隊員

    東日本大震災での自衛隊による被災者支援活動は「最後の砦」である。
    隊員はその重みを感じながら黙々と働くが、肉体的、精神的疲労は日ごとに増す。
    身内に犠牲が出てもわが身を顧みず、被災地にとどまる隊員も多い。

    実績を声高に誇ることもなく、黙して語らぬ隊員の思いと労苦を隊員同士のメールから検証した。
    「海には数メートルおきにご遺体が浮いている」
    「幼い亡骸を目にすると、わが子とダブってたまらない」

    地震に津波の被害が重なった大震災。遺体収容も自衛隊の重要な任務のひとつだ。
    日常的に遺体を扱う警察官と違い、慣れているわけではない。とりわけ、海に流された遺体と対面するのはつらい作業だという。
    「流木にはさまれ、両手をあげていた。最後まで救助を信じていたように...」

    凄惨な現場は、隊員の心を消耗させ、無力感さえ抱かせかねない。
    そのために陸上自衛隊はメンタルヘルスを重視し、夜ごと隊員を10人ほどの班に分け車座になって一日を振り返る時間をつくった。
    陸上自衛隊員は「仲間と苦しみ、痛みを共有できれば気力がわいてくる」と打ち明ける。

    「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉がみつからない」
    身内に被害が出た隊員も支援を続ける。

    「被災地に来て12日目。風呂はまだ1回しか入れていない」「毎日、乾パンや缶メシと水だけ」
    炊き出して温かい汁ものの食事を被災者に提供しても、隊員が口にするのは冷たいものばかり。

    22カ所で入浴支援も行っているが、汗と泥にまみれた隊員は入浴もままならない。
    「わが身は顧みず、何ごとも被災者第一」の方針を貫く。

    兵たんや偵察といった自衛隊ならではのノウハウを生かし、役割も増している。
    集積所によっては滞りがちだった物資輸送の効率化に向けて、自治体や運送会社を束ねるシステムを立ち上げた。
    孤立地域のニーズをきめ細かく把握する「御用聞き任務」も始めた。
    「被災者の心細さを考えたら...。 がんばる」

    東京電力福島第1原発で17日からの放水活動の口火を切ったのも自衛隊だった。

    ある隊員からはこんなメールが届いた。
    「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」
    「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

    今日も自衛隊員は被災者のそばにいる。


    [No.136] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 08:18
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    > > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    仲間のために行く 原発作業員

    ズドン、重い爆発音が響き渡った。
    3月14日午前11時1分、東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。
    東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員Nさん(47)は、隣の2号機で電源復旧作業に当たっていた。

    外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、コンクリートのがれきが散乱していた。灰色の煙がもうもうと青空へ立ち上っていた。

    「もうだめだ...」、
    仲間の声が聞こえた。Nさんは「放射能をくらうぞ。避難するんだ」と声を上げ、防護服のまま、がれきの上を走った。
    乗ってきた車3台は爆風で窓が割れていて使えず、作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近くある。最後は息切れして歩いてたどりついた。

    全員の無事を確認し、同僚4人ほどと喫煙室で「もし外にいたらかなりの線量をくらっていた」と話し合った。仲間を見ると、たばこを持つ手が震えていた。

    Nさんは11日の震災発生時、第1原発の事務所3階にいた。東電の要請に応え、同僚十数人とそのまま原発に残った。
    「被曝の危険性があることはわかっていたが、復旧作業には原発で18年間働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた」

    4日間働き続け、水素爆発に遭遇した翌日にあたる15日朝、東電の緊急待避命令により避難した。

    東電によると、第1原発では連日300人程度が働き、うち50人ほどが協力会社の社員だ。
    1日の食事は非常食2食、毛布1枚にくるまり雑魚寝という過酷な環境で作業を続ける彼らの大半は地元の住民である。

    Nさんは「会社は『すぐ来てくれ』など命令的なことは決して口にしない。ただ『覚悟が決まったら来てほしい』と言う。自己責任を求められる」と話す。

    3号機の発電用タービン建屋地下で3月24日に放射性物質(放射能)に汚染された水で被曝した作業員3人もNさんの部下だった
    東電社員の中には5日間で年間被曝線量の上限の50年分を浴びた人もいた。

    そしてNさんは、ふたたび第1原発へ戻った。
    「消防や自衛隊の方は公務だから、われわれ会社員とは使命感の持ちようも異なるかもしれない。同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている。
    むろん、行かなくても誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く」


    [No.135] Re: 非常食カンパン 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/22(Wed) 05:45
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    あやさん

    > その会議の前に時間があって、ピアゴという店を歩いて、カンパンを探して
    > 見たのです。ありました。
    >
    > 三立製菓のものでした。278− 一缶だけ買ってきました。
    >
    > 帰ってきて、ここを覗いたらビスコのビスケットが載っていました。

    そうでしたか。

    私は定期的に家の保管場所を見て
    期限のすんだ缶詰類もあけて食べています。

    インスタント麺類も期限すぎたら残さず食べています。


    [No.134] Re: 非常食カンパン 投稿者:あや  投稿日:2013/05/21(Tue) 21:24
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    男爵さん

    今日は午前中「赤ちゃん教室」の手伝い。1歳児までの16組の親子が
    参加してくれました。
    そのあと、午後は「保健活動推進員会」の会議、区役所でした。
    それから、「子どもレクリェエーション」の写真の整理、などで終わりました。

    その会議の前に時間があって、ピアゴという店を歩いて、カンパンを探して
    見たのです。ありました。

    三立製菓のものでした。278− 一缶だけ買ってきました。

    帰ってきて、ここを覗いたらビスコのビスケットが載っていました。
    これも売っていました。どうしようか迷ったのですが、その時はここに
    載っているのに気がつかなくて。
    280−となっていたように思います。こちらはサンドイッチみたいに
    なにか入っているのですね。


    [No.133] Re: プロの誇り 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/21(Tue) 20:43
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    > > > 産経新聞社:がれきの中で本当にあったこと わが子と語る東日本大震災 (平成23年6月)

    日本の「救世主」ハイパーレスキュー隊


    見えない「敵」との戦いだった。
    福島第1原発事故で3月19日未明の放水活動を行った東京消防庁ハイパーレスキュー隊。
    廃墟と化した原発内で被曝しながら、ホースを手作業で広げる決死の作業だった。
    隊長らは「無事にミッションは達成した」と胸を張る一方、「隊員の家族には心配をかけた」と涙で言葉を詰まらせた。

    ハイパーレスキュー隊の冨岡豊彦総括隊長(47)が、福島第1原発に最初に足を踏み入れたのは18日午後5時ごろ。
    まず、特殊災害対策車でどのように安全にミッションをこなせるかを探った。

    当初の東京電力側からの情報では、水をくみ上げる海側までは車で近づけるはずだったが、原発内はがれきで埋まり、進入はすぐに阻まれた。

    「ホースを手で広げるしかない」午後7時半から始まった作業会議。がれきを避け、海から放水車までホースを延ばすには被曝の危険が増す車外で作業を行うしかないという結論に達するまでに4時間かかった。

    海水を1分間に約3トン送り出すホースは太くて重い。ホースの重さは50メートルで約100キロ、それをロープで引っ張り4人がかりで運ぶ。
    敷設は約350メートルで、足場は悪く、危険な作業だった。作戦の決行は高山幸夫総括隊長(54)ら約40人の隊員に委ねられた。

    佐藤康雄警防部長は「危険度を熟知する隊員の恐怖心は計り知れないが、拒否する者はいなかった」。
    だが、防護服の着用に普段の3倍以上の時間がかかるなど、緊張の色を隠せなかったという。

    約20人が車外に出ての作業。車外作業者には、放射線量を測る隊員から危険度を知らせる声がかかった。

    「常にそばでパックアップしてくれる仲間がいたからこそ達成できた」と高山隊長。
    作業は約15分で完了し、屈折放水塔車は白煙を上げる3号機に向けて、19日午前0時半、放水を開始。20分で約60トンを放水した。


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