今回は、運動会・遠足・学芸会・展覧会など
小学校時代の懐かしい思い出、少し苦い思い出など書いてください。
中学校(女学校)時代のことでもいいです。
戦中・戦後、いろいろな事情で学校行事が開催できなかったこともあったと思います。
そんなことも書いてください。
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[No.78]
Re: 学校側の言い分
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/10(Sun) 15:33
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> >そういうわけで、何冊か読んだものをもとに
> >少し書いてみたいと思います。
次は戦後の学校生徒の様子
・弁当もろくなものがなく、豆が入ろうがどうしようが、持ってくればいいほうだった
コンブや大根の入った弁当がザラだった
・ある先生は大きな弁当と卵焼きをいっぱい持ってきて、生徒に分けていた
・戦前の青年団は国の御用機関で終戦と同時になくなったが
何かと不便だし、さびしいので、またつくった
色々活動したが、駅伝大会などにも出た
・某地区の青年団は弁論大会で優勝したり、卓球大会で十三連勝した
ある卒業生が書いているが
家が学校に近かったので、すぐ学校に行けたが
幼い頃病気がちで、早生まれのせいもあり、小学校では体育が最も苦手だった。
運動会ではビリで、やっとゴールインしたら目の前が家の門で
そのまま家の中にかけ込んでしまった。
何かの歌にあるような話だが、本当の話だ。
[No.77]
Re: 学校側の言い分
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/10(Sun) 15:10
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> 運動会・遠足・学芸会・展覧会について話題を広げるため
>図書館で何か参考になりそうな本を探したのですが
>なかなか見つけられません。
>一番ほしいのは、小学生の時の思い出を書いた本です。
>探し方が悪いのか見つかりませんでした。
>図書館員に相談したら、○○小学校◇□周年記念誌のような本を数冊紹介してくれました。
>そういうわけで、何冊か読んだものをもとに
>少し書いてみたいと思います。
戦争中の学校生徒の様子
・イナゴの佃煮つくりをさせられた
・実習地の田んぼで田植えをするときは、神主にお払いをしてもらった
・キャベツの虫取をさせられた
・生徒が野菜などをリヤカーに積んで売って歩いた
・運動場にジャガイモを植えたが、収穫しないうちに終戦になった
・当時の生徒たちは弟・妹を学校に連れてくることが多かった
・終戦になり、御真影は県の方にお返しした
[No.76]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:オアシス
投稿日:2013/11/10(Sun) 10:34
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まーちゃん、 男爵さん、 みなさん
学童疎開 集団疎開ですね。9つじゃ大変だったですね。
私は縁故疎開、それも小学校6年からですから、、、
「厳しいサバイバルゲーム」でしたか、何となくわかる
気がします。
どちらででしたか?
オアシス
>
> おじゃまします。
>
> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?
>
> 私は最後の「学童疎開組」でした。
>
> 何しろ、まだ9つでしょう。
>
> 最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。
>
> しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
> すぐに分かりました。
[No.75]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/10(Sun) 09:51
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マーチャン オアシスさん みなさん
> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?
>
> 私は最後の「学童疎開組」でした。
>
> 何しろ、まだ9つでしょう。
>
> 最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。
>
> しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
> すぐに分かりました。
やはり。
楽しい「学童疎開」というのか聞きませんね。
食べ物は少ないし、親と離れているし。
[No.74]
Re: 百足競争
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/10(Sun) 09:48
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キャロットさん
この百足競争もいずれ書くつもりでした。
> もうひとつ運動会の思い出があります。それは、百足競争です、
> 五、六人が一列になり、ロープか長い板状の下駄見たいのに足を固定して、イッチ、 ニツ、の掛け声に合わせてスタートするの ですが、中々息が合わず、駆けるのが
> 思うに出来ず、見ていて噴き出す場面もありますね(笑)
> 楽しみな競技の一つです。
どうもありがとうございます。
[No.73]
百足競争
投稿者:キャロット
投稿日:2013/11/10(Sun) 09:15
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キャロットです。
もうひとつ運動会の思い出があります。それは、百足競争です、
五、六人が一列になり、ロープか長い板状の下駄見たいのに足を固定して、イッチ、 ニツ、の掛け声に合わせてスタートするの ですが、中々息が合わず、駆けるのが
思うに出来ず、見ていて噴き出す場面もありますね(笑)
楽しみな競技の一つです。
[No.72]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:マーチャン
投稿日:2013/11/10(Sun) 08:44
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男爵さん オアシスさん みなさん
おじゃまします。
> ところで
> 学童疎開は経験されませんでしたか?
私は最後の「学童疎開組」でした。
何しろ、まだ9つでしょう。
最初は、遠足のつもりで、ルンルン気分でした。
しかし「楽しい遠足」どころか「厳しいサバイバルゲーム」だということが
すぐに分かりました。
[No.71]
運動会/障害物競走
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/10(Sun) 05:19
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障害物競走というのもありましたね。
障害物競走における代表的な障害物として
網くぐり、輪抜け、平均台、跳び箱やハードル(跳躍)など
ネットのサイトに書いてありましたが
私は梯子を横にたてかけ、その空間を抜けていくのを見ました。
[No.70]
Re: 学芸会?
投稿者:オアシス
投稿日:2013/11/09(Sat) 10:29
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男爵さん、 みなさん
幼稚園、小学低学年では 多分学芸会乃至はそれに準ずる会
があったと思います。
私 小心で、内気、いじけた少年でしたので、参加した思い出
、覚えはないです。
なんせ 貴殿とはちょうど一回り、12年違いの人生ですから
世の中の暮らし、生活、社会の全てが違っていました。
私の良い思い出は幼稚園までの両親との生活、特に可愛がって
くれたとしごの姉(去年春逝去)と、優しく接してくれた近所
のおばさんなど身近な人達の優しさ・労りです。
オアシス
>
>
> > あの頃は食べるものがなくて
> > よくみんな生き延びたと思います。
> > とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。
>
> しかし
> 学芸会はあったように思います。
>
> 小さかった私は学芸会の記憶はないのですが
> 小学校の講堂で旅芸人の舞台を見たことがあります。
> かげで衣装を整えメイキャップしていた芸人 その姿を覚えています。
> (彼らも食べ物を求めて地方を回っていたのでしょう)
>
> そのとき舞台で歌われていた歌もしっかり覚えています。
>
> 三原純子 南から南から
> http://www.youtube.com/watch?v=RZ9z0SzYCdM
>
> 戦争も終わりみんなやれやれ
> だからこういう歌ができたのかと思っていたら
> この歌は戦争中につくられた歌でした。
>
> 三原純子は楠木繁夫と恋仲になり、1943年(昭和18年)結婚。
> 人気歌手とうしの夫婦だったが、空襲で東京の家を焼失したため、夫妻は三原の故郷である飛騨高山に疎開。
> 終戦後に、夫はヒロポン中毒になり、いっぽう彼女は結核となり故郷で療養生活をおくるうちに
> 東京で一人暮らしていた楠木繁夫は自殺。
[No.69]
Re: 野町から野々市/北鉄石川線
投稿者:オアシス
投稿日:2013/11/09(Sat) 10:19
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男爵さん、丁寧な正確な情報を有り難うございました。
>
> > 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
>
> > 電車は廃線になっちゃったんですね。
良かったぁ。飛び乗ってぶら下がっての中1の思い出が
懐かしくしのばれます。
本当に有り難うございました。
オアシス
>
> 失礼しました
> 北陸鉄度の石川線として今も運行しているようです。
> http://www.hokutetsu.co.jp/train/ishikawa-sen.html
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