今回は、運動会・遠足・学芸会・展覧会など
小学校時代の懐かしい思い出、少し苦い思い出など書いてください。
中学校(女学校)時代のことでもいいです。
戦中・戦後、いろいろな事情で学校行事が開催できなかったこともあったと思います。
そんなことも書いてください。
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[No.68]
学芸会?
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/09(Sat) 07:18
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オアシスさん、 みなさん
> > 昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
> > 食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
> > 物々交換でした。
> あの頃は食べるものがなくて
> よくみんな生き延びたと思います。
> とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。
しかし
学芸会はあったように思います。
小さかった私は学芸会の記憶はないのですが
小学校の講堂で旅芸人の舞台を見たことがあります。
かげで衣装を整えメイキャップしていた芸人 その姿を覚えています。
(彼らも食べ物を求めて地方を回っていたのでしょう)
そのとき舞台で歌われていた歌もしっかり覚えています。
三原純子 南から南から
http://www.youtube.com/watch?v=RZ9z0SzYCdM
戦争も終わりみんなやれやれ
だからこういう歌ができたのかと思っていたら
この歌は戦争中につくられた歌でした。
三原純子は楠木繁夫と恋仲になり、1943年(昭和18年)結婚。
人気歌手とうしの夫婦だったが、空襲で東京の家を焼失したため、夫妻は三原の故郷である飛騨高山に疎開。
終戦後に、夫はヒロポン中毒になり、いっぽう彼女は結核となり故郷で療養生活をおくるうちに
東京で一人暮らしていた楠木繁夫は自殺。
[No.67]
野町から野々市/北鉄石川線
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/09(Sat) 06:54
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オアシスさん
> 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
> 電車は廃線になっちゃったんですね。
失礼しました
北陸鉄度の石川線として今も運行しているようです。
http://www.hokutetsu.co.jp/train/ishikawa-sen.html
[No.66]
運動会/パンくい競争
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/09(Sat) 05:47
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パンくい競争
これもなかなか難しい。
要領のよい人はすぐパンをくわえてゴールに走るが
下手な人はいくらやってもパンを口にすることができない。
私はあの競技用のパンをどうやって作るのか
興味があります。
[No.65]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/09(Sat) 05:44
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オアシスさん
> 電車は廃線になっちゃったんですね。
どうもそうみたいです。
> 昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
> 食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
> 物々交換でした。
> 田舎の生活は戦前は都会比貧しかったですから、冷たかったです。
あの頃は食べるものがなくて
よくみんな生き延びたと思います。
とても遠足や運動会どころではなかったでしょう。
> 田舎のお百姓さん、お金は札を積み上げ 尺祝いでした。
> 金では売らぬ、物をと もう代わりの持ってきたものはないから
それまで小作していた人は農地解放で自分の土地ができたうえ
都会の人が押し寄せ
食べ物と交換した着物や品物を手に入れて天国だったようです。
あのころが最高だった(いまは減反で地獄だ)と感想をもらす農家もいます。
私も両親が町から農村地域に引っ越しして
毎日、ジャガイモやカボチャなと食べたものです。 ムギや蕎麦も。
父はあの農村のおかげで生きられたと言いますが
母は農村の人びとの尊大な態度を批判していました。
ある都会から来た婦人は苦労して交渉しても食べ物がもらえず
悲観して自殺したそうです。
私たち親子が終戦後なんとか食糧にありついた
この農村地帯に走っていた鉄道もいまは廃線となりました。
雪が3メートルも降るとSLも止まる。
思い起こせば
1993年は東北北海道は寒い気候のため米が大変不作の年でした。
スーパーでも米屋でも米が買えず
これは大変と、米に頼らない食事に切り替えました。
いまでもパン、蕎麦、ジャガイモ、穀類などの食事で生きていける自信があります。
日本から米がなくても生きていける。
あのときは米商人の考えか政府の政策か
とにかく私はあれから米とは距離をおくようになったのでした。
[No.64]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:オアシス
投稿日:2013/11/08(Fri) 21:49
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男爵さん
電車は廃線になっちゃったんですね。
昭和20年、21年 そりゃ生活は苦しかったですよ。
食料は都会の生活で使っていた衣料などと、芋・かぼちゃなどの
物々交換でした。
田舎の生活は戦前は都会比貧しかったですから、冷たかったです。
田舎のお百姓さん、お金は札を積み上げ 尺祝いでした。
金では売らぬ、物をと もう代わりの持ってきたものはないから
何とかそこを、、、
と 返事はそんなにほしいなら採っていけばいいじゃないかと、で
盗って持ち帰ったこともあります。
何せ都市部で1千万人餓死せつまであった時代ですから、、、
オアシス
> > 縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
> > 始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
> > 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
>
> ネットで調べると
> 石川県道179号野々市鶴来線
>
> 石川県道179号野々市鶴来線(いしかわけんどう179ごう ののいちつるぎせん)は
> 石川県野々市(ののいち)市と同県白山市を結ぶ一般県道です。
> 通称「鶴来街道」とも呼ばれる。
>
> 疎開での生活はたいてい不愉快な思い出があるようですが
> そういうことがないのでしたら幸いでした。
[No.63]
Re: 運動会/借物競走
投稿者:あや
投稿日:2013/11/08(Fri) 19:26
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男爵さん
> > 私も借り物になったことがあります。でも速く走れずに大変でした。
>
> あやさんを借りるのですか。
そうなんです。私をなんです? でも「あや」さんではないんです。
「連合の役員」と書いてあったか、そんなことで借り出されるのです。
>
> 一度に二人から借りられるということはないですね。
これはないです。それほどもてませんよ(^_-)
[No.62]
Re: 騎馬戦、棒倒し、
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/08(Fri) 18:12
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キャロットさん
> 運動会の思い出は、やはり五、六年生の騎馬戦、と棒倒しでしょうね。私は1932年
> 生まれの栄養不良の痩せポッチで軽い故、騎馬戦では馬上で帽子取りの役でした。
> 相手の帽子が中々取れず、難儀だったもんでした、
騎馬戦は私も書くつもりでした。
キャロットさんは
てっぺんで活躍できる役ですね。
[No.61]
騎馬戦、棒倒し、
投稿者:キャロット
投稿日:2013/11/08(Fri) 17:51
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皆さん、ご無沙汰してます、キャロットです。
運動会の思い出は、やはり五、六年生の騎馬戦、と棒倒しでしょうね。私は1932年
生まれの栄養不良の痩せポッチで軽い故、騎馬戦では馬上で帽子取りの役でした。
相手の帽子が中々取れず、難儀だったもんでした、
棒倒しでは、身が軽い為、戦闘員には成れず何時も棒の根元で倒れない様に根元に
しがみついての防御役で背の上での争いが、解らず船舶の機関員見たいな物でした、
徒競争は万年、ビリでしたが、鉛筆の2.3本のご褒美を頂き、満足でした。(笑)
[No.60]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:男爵
投稿日:2013/11/08(Fri) 12:54
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オアシスさん
> > ところで
> > 学童疎開は経験されませんでしたか?
> 縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
> 始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
> 鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
ネットで調べると
石川県道179号野々市鶴来線
石川県道179号野々市鶴来線(いしかわけんどう179ごう ののいちつるぎせん)は
石川県野々市(ののいち)市と同県白山市を結ぶ一般県道です。
通称「鶴来街道」とも呼ばれる。
疎開での生活はたいてい不愉快な思い出があるようですが
そういうことがないのでしたら幸いでした。
[No.59]
Re: 卒業旅行なし
投稿者:オアシス
投稿日:2013/11/08(Fri) 10:26
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男爵さん、みなさん こんにちは。
>
>そういう人もいたんですね。
> 一種の戦争犠牲者。
仰る通りでしょう。
> ところで
> 学童疎開は経験されませんでしたか?
縁故疎開で、本家のある金沢へ、落ち着いた所は松任町です。
始めはお寺のはなれ、ついで一軒家で 旧制金沢一中に たしか
鶴来線?野町から野々市へと通っての1年余でした。
オアシス
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