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[No.16015] 古事記に日本平はなかった 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/01(Mon) 17:36
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金沢の全国オフの帰りに静岡に立ち寄り
日本平から久能山にロープウェイで上って東照宮を見てきたのですが
どうして日本平という名前が付いたのかを聞いたら
ガイドの方が
古事記のヤマトタケルノ命の冒険の話から
と教えてくれました。

あまりに有名だからポイントだけ整理すると以下のようになります。
ヤマトタケルノ命は
父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ
無事任務を終えて帰ってくると
休む暇もなく今度は
東国の言うことを聞かない者たちを征伐するように命ぜられます。
伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。
ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。
彼はおばのヤマト姫からもらった剣で草をかり取って
これまたおばからもらった袋の中の火打ち石で草に火を付け
火の向きを変えることに成功し悪者たちを征伐することに成功します。

その草薙の剣を奉納したというのが草薙神社
近くにはJRの草薙駅があります。
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/kusanaji/kusanagi.htm

また
ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
ということですが、これは古事記の原本にはないようです。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/yamatotakeru/yamatotakeru.htm

それから
ヤマトタケルノ命は
罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
そうガイドさんは説明してくれましたが
日本平と焼津は離れていますね。
日本平と草薙神社はたしかに近いです。


[No.16024] Re: 古事記に日本平はなかった 投稿者:瀬里恵  投稿日:2010/11/03(Wed) 16:33
[関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

男爵さん、今日は…。

この部屋は私のPCからは、エラーによるアクセスボイコットがあって
暫く入れませんでした。お亀さんのカキコでゴメンなさい(笑)。
そこでチト気付いた事があるのでフォローします。

> ヤマトタケルノ命は
> 父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ

ヤマトタケルの尊の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇ではありませんか。
(注・命と尊の使い分けについて;一般に混同されているようですが天皇系
には尊、臣民系には命を使うのが正しい)

> 伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。

草薙の剣はヤマトタケルの焼き討ち事件の後に付けられた名称で
ヤマト姫から授けられた時点での剣名は「都牟刈の大刀」(これも
時系列的には疑問ですが)と言うべきではないでしょうか。

この剣はスサノオの尊がヤマタノオロチを退治したときにオロチ
の尻尾から出てきた剣で、オロチの頭上にはいつも黒雲が漂っていた
処から「天叢雲剣」と名付けられたと日本書紀には書かれています。

そしてこれは、天照大神の岩戸隠れの時に、岩戸の前の榊に飾られた
ヤタの鏡、ヤサカニの勾玉、とともに現在も三種の神器として皇位継承
の証明とされているものです。(ただし現物の正体というか信憑性
については色々な説がある)

> ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
> この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
> ということですが、これは古事記の原本にはないようです。

これは「日本/ニホン」という言葉が何時頃普及したか、と言う事と
考え合わせる必要がある。古事記成立の以後に普及した言葉だと
推察すれば、古事記にないのは当然ですネ。

> ヤマトタケルノ命は
> 罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
> この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
> そうガイドさんは説明してくれましたが
> 日本平と焼津は離れていますね。

まさにその通り…

> ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
> 騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。

と貴方も書いておられるように焼き討ちの現場は「相模」の国なのに
なぜ尾張静岡の焼津市に摩り替わっているのか
一考すべきプロブレムですネ。

     では又ネ   瀬里恵


[No.16025] Re: 古事記に日本平はなかった 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/03(Wed) 17:29
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瀬里恵さん  こんにちは

> > ヤマトタケルノ命は
> > 父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ
>
> ヤマトタケルの尊の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇ではありませんか。
> (注・命と尊の使い分けについて;一般に混同されているようですが天皇系
> には尊、臣民系には命を使うのが正しい)

参考にしたのは
  福永 武彦 (著) 古事記物語 (岩波少年文庫 (508))
です。

ヤマトタケルノ命の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇と書かれていたのを
あるいは私が誤記したかもしれません。
すでに、この本は図書館に返却したので、いま確認できません。

> > 伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。
>
> 草薙の剣はヤマトタケルの焼き討ち事件の後に付けられた名称で
> ヤマト姫から授けられた時点での剣名は「都牟刈の大刀」(これも
> 時系列的には疑問ですが)と言うべきではないでしょうか。
>
> この剣はスサノオの尊がヤマタノオロチを退治したときにオロチ
> の尻尾から出てきた剣で、オロチの頭上にはいつも黒雲が漂っていた
> 処から「天叢雲剣」と名付けられたと日本書紀には書かれています。

ご指摘の通りと思いますが
参考にした本には、読者が少年としたからか、はじめから草薙の剣と書いてありました。
もちろん、この事件のあとに、そういう名前が付けられたということも書いてありました。

> > ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
> > この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
> > ということですが、これは古事記の原本にはないようです。
>
> これは「日本/ニホン」という言葉が何時頃普及したか、と言う事と
> 考え合わせる必要がある。古事記成立の以後に普及した言葉だと
> 推察すれば、古事記にないのは当然ですネ。

日本平の由来を質問したら、ガイドさんの口から、古事記の日本武尊が出てきたので
それではと思って念のために読んだわけです。
日本平は後世の人が、この故事にあやかって名前を付けたのでしょう。

> > ヤマトタケルノ命は
> > 罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
> > この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
> > そうガイドさんは説明してくれましたが
> > 日本平と焼津は離れていますね。
>
> まさにその通り…
>
> > ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
> > 騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。
>
> と貴方も書いておられるように焼き討ちの現場は「相模」の国なのに
> なぜ尾張静岡の焼津市に摩り替わっているのか
> 一考すべきプロブレムですネ。

焼津の名前は、いつどのように付けられたのか?
ら、めーるさんに聞いてみたいところです。


[No.16079] 古田武彦「盗まれた神話」から 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/10(Wed) 13:18
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瀬里恵さん、みなさん  こんにちは

古田武彦・古代史コレクションの3
 盗まれた神話
   記・紀の秘密

この著者は東北大学法文学部日本思想史科の卒業で
ユニークな本である。
難解で私にはむずかしい。

柿本人麻呂の歌
「大君は神にしませば天雲の雷 の上に廬(いほ)らせるかも 」
の雷(いかづち)は、通説では大和の明日香村の雷丘とされているが
この著者はそうではなく
九州の福岡県前原市と佐賀県との間にある背振山脈の第二峰、雷山(らいさん)のことであると書いている。九州の雷山は高さが955メートル(明日香村の雷丘は20メートル足らず)
 すなわち、この著者によれば
「筑紫の君(九州王朝の代々の王者)はすでに死んで神となっておられますから、今は山のほこらを『いほり』として安らかにすごしておられます」となるというのである。

いわゆる東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)にある
今(天正5年、1577年)から2500年前に、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)たちが
稲を筑紫から東日流(つがる)へもってきたという記述は本当である。
炭素同位元素の測定でも確かめられる。
と、著者は東日流外三郡誌を高く評価しているが
この書物は偽ものであるというのが現在の定説である。

ただこの中で「古事記」と「日本書紀」にともに
天孫降臨を述べるところで、随伴した三種の神器の一つとして「草薙剣」と書かれてあると述べている。
日本武尊説話の段階で名づけられたことになっているこの名前が、天孫降臨の段階で「草薙剣」と呼ばれているのは、一見奇妙である。
おそらく天照大神も瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)も天孫降臨のときには、この剣の「未来の名前」など夢にも知りはしなかっただろうから。
しかしここでは、後代名称の「草薙剣」でもってそれ以前の名の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と置換して記述しているのである。
だが、これは一般には史書の上で必ずしも不思議な用法ではない。
「日本の神武天皇」とか「中国の孔子」とかいって平気なのと同じであるから。
  ここは、ああそうなのかと思って読みました。