画像サイズ: 620×570 (68kB) | 昨年11月に思いがけず行った マカオ 滞在時間はわずか半日。
それでも見てきたものを復習整理するため いまもなおマカオ関係の本を見ています。 菊間潤吾「マカオ歴史散歩」新潮社(2004)
この本にはさすがに歴史には詳しい そして 日本との関係を他の本よりよく述べている。
香港がアヘン戦争で暴力的にイギリス領になったのとは違い 1557年ごろまでにポルトガル人のマカオ定住が広州の官憲に認められたことである。 この定住許可の理由として、ポルトガル人による周辺海賊討伐の功績が認められたためとか、広州の官憲へ賄賂を贈ったためであるとか諸説があるが いずれにせよ、以後ポルトガル人は東アジアでの交易と布教の拠点を得たのであった。
しかし、マカオの繁栄も1640年前後までであとは衰退に向かう。 その原因は、日本の鎖国による日明間の中継貿易の利益消失であった。なにしろ1639年に江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダのみが日本と交易できる唯一のヨーロッパの国となったから。 回りをみると、(ポルトガルとスペインの関係が悪くなり)スペイン領フィリピンとの貿易も途絶えたし、ポルトガル支配のマラッカもオランダにより陥落したのでマカオは孤立して衰退に向かっていった。
アヘン戦争のあと、香港はイギリスの植民地となってから、マカオもそれまで払っていた地代を払わなくなり1887年にポルトガル領土となった。
第二次世界大戦の時は、香港は日本に占領されたが、マカオは中立地帯となっていた。 本国ポルトガルが中立政策をとったことに加え、日本は戦略的にマカオを中立化することで情報や物資を入手できる裏ルートを利用したとみることもできる。 孫文も政治活動の出発地をマカオと考えることもできる。長い間、広州とマカオはヨーロッパ文化の窓口であった。
写真は 香港からのフェリーがマカオを到着するところ。 これから簡単な入国手続きをしてマカオの町に入ります。 写真だけだと、福岡からフェリーで釜山に入港するのと変わりありません。 |