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[No.21] 放浪記 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/03(Tue) 14:36
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「放浪記」
 1961年10月20日に芸術座で初演された舞台劇です。

林芙美子の小説「放浪記」をもとに
脚本・演出は菊田一夫、音楽は古関裕而、主演は森光子でした。
主演の森光子は初演から死去まで変更されず、林芙美子を一人で演じた。

菊田の死後、1981年から1996年までは三木のり平が菊田の脚本を潤色し、演出もてがけた。
三木のり平のアイデアで、森光子が舞台で、でんぐりかえりをする。

若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。
サトウ・ハチローは父の支援により自分の部屋をもっていて、そこに菊田らを同居させていた。

浅草の舞台でエノケンが活躍するころ、サトウ・ハチローの指示により
苦労しながらその脚本を書いていた。これがのちに彼が劇作家として大成する基礎となった。

文学をこころざす彼らのところに、ときおり林芙美子もやってきた。
売れない文章を書きながら女給として働いていた林芙美子は
ときおり一升瓶をさげながら、彼らの所に命の洗濯にやってきたという。

彼らの青春を振り返るとき、林芙美子のことが忘れられず
菊田一夫は彼女のことを舞台劇にしたのであろう。

彼女の最初の夫は、同好の文学青年だったが
彼女の作品に嫉妬したりして暴力を振るい結婚は不幸であった。
のちに「放浪記」の劇に出てくる画家の青年と知り合いになり
これがやさしく彼女をはげます夫となり、この夫のお陰で
女流作家林芙美子が誕生する。


森 光子は 2012年11月10日に亡くなりました。(満92歳没)


[No.203] 「浮雲」 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/14(Sat) 05:46
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映画「浮雲」 公開 1955年

監督 成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本 水木洋子

出演者 高峰秀子
    森雅之

男で苦労したヒロインが
雨の多い屋久島で死ぬ映画は
私にとってはサッパリわからない映画だった。

男で苦労した林芙美子の半生が
反映されているのだろうか。

彼女はしかし、最後の夫はやさしく理解もあり
最高の夫だったので、売れっ子の作家として
晩年は幸せだった。

林芙美子のように夢多き波瀾万丈の生活をおくった女性のことを
世の平凡な家庭生活にひたる主婦たちは
憧れたり興味をもつものであろうか。

 
賞歴[編集]1955年度キネマ旬報ベストテン第1位、監督賞、主演女優賞、主演男優賞受賞
1955年度ブルーリボン賞受賞
第10回毎日映画コンクール日本映画賞受賞


[No.420] 鐘の鳴る丘 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/28(Sat) 19:06
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> 若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。

> 浅草の舞台でエノケンが活躍するころ、サトウ・ハチローの指示により
> 苦労しながらその脚本を書いていた。これがのちに彼が劇作家として大成する基礎となった。

連続放送劇「鐘の鳴る丘」は、昭和22年7月から3年半にわたってNHKラジオから放送 され、古関裕而作曲の主題歌「とんがり帽子」とともに大流行した。

昭和23年には、松竹 によって映画化され、全部で3本作られている。

www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMw


[No.433] さくらんぼ大将 投稿者:男爵  投稿日:2013/09/30(Mon) 18:25
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「鐘の鳴る丘」に引つづいて菊田一夫が書いた
NHKの放送劇「さくらんぼ大将」が映画になったのです。
 ロッパこと古川緑波が出ました。
http://movie.walkerplus.com/mv23366/

このドラマは
菊田一夫とのコンビでNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」で成功した
作曲家 古関裕而が福島市の出身なので
古関の意向により
つぎのドラマは「さくらんぼ大将」となったのです。

舞台も山形県ではなく福島県でした。
福島県もサクランボがとれるのです。

http://blogs.yahoo.co.jp/tykeys0320/31060077.html


[No.439] Re: 鐘の鳴る丘 投稿者:夏子  投稿日:2013/10/01(Tue) 10:33
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男爵さん、皆さん

> 連続放送劇「鐘の鳴る丘」は、昭和22年7月から3年半にわたってNHKラジオから放送 され、古関作裕而曲の主題歌「とんがり帽子」とともに大流行した。
>
> 昭和23年には、松竹 によって映画化され、全部で3本作られている。

年齢から言って、この放送劇や映画を見ているとは思えませんが、主題歌は結構
覚えています。息の長いヒット曲だったんですかね?

で、自分が覚えているかどうか歌ってみました(^^;

緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴りますキンコンカン メェメェこやぎも鳴いてます
風はそよそよ 丘の上 (白い)お家がおいらの家よ

どうも最後の行が自信がないのですが、調べると、自分の記憶力が誇れませんので(^^;

福島に旅をした際、台風の関係で、雨風に祟られて、仕方がないので「古関裕而記念館」
で半日以上を過ごしました。

でも楽しい記念館で、面白かったです。知っている歌が多かったので。
すごい数の作曲をしておられますね。


[No.442] Re: 鐘の鳴る丘 投稿者:夏子  投稿日:2013/10/01(Tue) 16:23
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> 緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
> 鐘が鳴りますキンコンカン メェメェこやぎも鳴いてます
> 風はそよそよ 丘の上 (白い)お家がおいらの家よ
>
> どうも最後の行が自信がないのですが、調べると、自分の記憶力が誇れませんので(^^;

「白いお窓がおいらの家よ」だったかも・・・・(^^;


[No.444] Re: 鐘の鳴る丘 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/01(Tue) 17:40
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夏子さん

> > 緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
> > 鐘が鳴りますキンコンカン メェメェこやぎも鳴いてます

故菊田一夫の長女、入江伊寧子さんは、劇中や主題歌に登場する<緑の丘の赤い屋根>のモチーフは、岩手県江刺市(いまは合併して奥州市江刺区)であると、次のように語っている。

「1945年3月、一家は江刺市の旅館の離れに疎開した。その旅館から小川を隔てた丘の上に、とんがり帽子のある洋館があったんです」

終戦の前に菊田一夫の妻と娘は
岩手県江刺市の旅館に疎開していました。
終戦後、そこに菊田一夫も来て、短いけれど一家が暮らした時期がありました。

彼らの部屋の窓から川を挟んで向かいに見えたのが
当時の岩谷堂町役場(岩谷堂町が合併して江刺市となり、現在はさらに合併して奥州市江刺区)
これは、明治8年に開院した岩谷堂共立病院、岩谷堂町役場となり現在は明治記念館として観光客に開放されています。
http://www.uchinome.jp/nature/land/land17_2.html

川田正子 ゆりかご会 菊田一夫作詞・古関裕爾作曲
http://www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMw


[No.446] 古関裕而 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/01(Tue) 18:23
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夏子さん

> 福島に旅をした際、台風の関係で、雨風に祟られて、仕方がないので「古関裕而記念館」
>で半日以上を過ごしました。

それは良いところを見学しましたね。
私も「古関裕而記念館」には数回訪れています。

古関裕而は福島の商業学校を卒業しただけで
正規の音楽教育を受けていないのです。

しかし、音楽が好きで
山田耕筰には何度も手紙を送って、指導を受けていたようです。

1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選したのです。

この入賞の報道を読んだ声楽家志望の愛知県の内山金子(きんこ)が裕而にファンレターを送り、熱烈な文通を経て1930年、裕而20歳、金子18歳でスピード結婚をしました。

正規の音楽を勉強していなかった古関は、妻の理解と支援により
音楽人生を充実させることができました。

古関はたいへんな愛妻家で、戦争中の疎開先でも空襲のときは妻を背負って避難したといいます。

古関裕爾は山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家となります。


[No.451] Re: 古関裕而 投稿者:さんらく亭  投稿日:2013/10/02(Wed) 09:17
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男爵さん こんにちは

> 古関裕而は福島の商業学校を卒業しただけで
> 正規の音楽教育を受けていないのです。

古関が作曲した夏の甲子園大会の大会歌「栄冠は君に輝く」の30周年に作曲者として開会式に招待された年が母校福島商業高校が6度目の出場の年に当たって入場行進で母校の選手に大きな拍手を送ったそうです。また初戦に勝って20年前に自分が作曲した母校の校歌が初めて甲子園に響いたのをTVで見て嬉しかったことを書いています。

古関裕而作曲、佐藤惣之助作詞 のコンビの応援歌といえば
阪神タイガースの「六甲颪」が1936年の作で、読売ジャイアンツの初代応援歌「野球の王者」より3年も早いのをご存知ですか?
(悔しいけど、阪神が巨人に勝ってるのはそれくらい?)
古関裕而は巨人の現在の(3代目)応援歌「闘魂込めて」も作曲しましたがこれは作詞は別の人です。

本当はどっちのファンだったのかなぁ?


[No.449] Re: 鐘の鳴る丘 投稿者:夏子  投稿日:2013/10/01(Tue) 23:03
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男爵さん、コメント、ありがとうございますm(_ _)m

> 「1945年3月、一家は江刺市の旅館の離れに疎開した。その旅館から小川を隔てた丘の上に、とんがり帽子のある洋館があったんです」
>
> 終戦の前に菊田一夫の妻と娘は
> 岩手県江刺市の旅館に疎開していました。
> 終戦後、そこに菊田一夫も来て、短いけれど一家が暮らした時期がありました。
>
> 彼らの部屋の窓から川を挟んで向かいに見えたのが
> 当時の岩谷堂町役場(岩谷堂町が合併して江刺市となり、現在はさらに合併して奥州市江刺区)
> これは、明治8年に開院した岩谷堂共立病院、岩谷堂町役場となり現在は明治記念館として観光客に開放されています。
> http://www.uchinome.jp/nature/land/land17_2.html

うーん・・・・私の審美眼から言うと、あまり美しくない洋館ですね(^^;
明治の洋館は、洋館めいた日本建築だったか、逆に日本風の洋館だったか、と書いて
あった本を読んだことがありますが、これは、中国風の日本建築のようで、どっちつかず
のような・・・・和洋中折衷とでも表現したい感じ(^^;

> 川田正子 ゆりかご会 菊田一夫作詞・古関裕爾作曲
> http://www.youtube.com/watch?v=j6DczqtMTMw

歌詞の記憶は、八割がた正解だったかな。古い記憶としては、まずまず合格だった、
ということにしておきますヽ(^o^)丿


[No.576] Re: 放浪記 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/14(Mon) 13:40
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> 「放浪記」
>  1961年10月20日に芸術座で初演された舞台劇です。
>
> 林芙美子の小説「放浪記」をもとに
> 脚本・演出は菊田一夫、音楽は古関裕而、主演は森光子でした。

> 若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。
> サトウ・ハチローは父の支援により自分の部屋をもっていて、そこに菊田らを同居させていた。

> 文学をこころざす彼らのところに、ときおり林芙美子もやってきた。
> 売れない文章を書きながら女給として働いていた林芙美子は
> ときおり一升瓶をさげながら、彼らの所に命の洗濯にやってきたという。

> 彼らの青春を振り返るとき、林芙美子のことが忘れられず
> 菊田一夫は彼女のことを舞台劇にしたのであろう。

菊田一夫は
1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、文学活動にふけっていた。

文京区小石川の伝通院の傍らに、詩人の渡辺渡、民謡詩人の山口義孝らとともに
家を借りて、「太平洋詩人」を出していた。

その家によく遊びにきたのは、サトウハチロー、小野十三郎夫妻、萩原恭次郎、林芙美子らであった。
そして、一番印象に残っているのは、サトウ八チロー以外は林芙美子だという。

林芙美子は神田の小川町のカフェで働いていたが、下宿の支払いがたまって帰りにくくなると必ず、彼らの家に泊まりに来た。
そういうときのお土産は一升瓶であった。

それも買えないときは、彼らが寄稿を依頼していた「太平洋詩人」に載せるための詩を一篇、まるで宿泊料の代わりに菊田に渡した。

伝通院には、徳川家康の生母・於大の方、千姫、佐藤春夫、柴田錬三郎、浪越徳治郎などの墓がある。

  菊田一夫  人間の記録111  日本図書センター(1999)


[No.577] Re: 放浪記 投稿者:男爵  投稿日:2013/10/14(Mon) 14:49
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> > 若き日の菊田一夫は文学青年をこころざし、サトウ・ハチローの世話になる。
> > サトウ・ハチローは父の支援により自分の部屋をもっていて、そこに菊田らを同居させていた。

> 菊田一夫は
> 1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、文学活動にふけっていた。

> 文京区小石川の伝通院の傍らに、詩人の渡辺渡、民謡詩人の山口義孝らとともに
> 家を借りて、「太平洋詩人」を出していた。

その頃菊田は一緒に仕事をしていた仲間には言わなかったが、人生に深刻に悩んでいた。
彼らと別れて、鎌倉へいった帰りにサトウ八チローのところへ顔を出し
「実は鎌倉で死のうと思ったのです」と正直に打ち明けた。

ハチローが「じゃあ、俺の家にこいよ」と言ってくれたので、以後ハチロー宅の居候兼走り使い、風呂焚きなど雑役係りを務めた。

菊田は自伝にも
昭和4年、サトウ八ローのところに奇食して詩作を学び、その庇護で浅草公園劇場の文芸部に入ったと書いている。

サトウハチローは結婚して家族がいたのだが(関東大震災のときには生まれて数カ月の長女ユリヤを抱えて逃げ回っている)、別居して
当時は池袋の家で美校の学生らと一緒に生活していたらしい。

サトウ八ローは上野の美術学校に偽学生として通い、ストーブを焚いたり粘土こねを手伝っていたという。
あまり堂々としていたから、美術学校の学生も教授も偽学生とは思わなかったそうである。

そのうち、彼らは玩具工房として「ラリルレロ玩具製作所」を立ち上げる。
この玩具の製作にも、菊田は声をかけられ手伝わさせられたらしい。
もっとも要領が悪く叱られてばかりだった。

>   菊田一夫  人間の記録111  日本図書センター(1999)
  
  玉川しんめい著 ぼくは浅草の不良少年 実録サトウ・ハチロー伝 作品社(2005)