[No.328]
乙羽信子
投稿者:男爵
投稿日:2013/09/21(Sat) 07:01
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> 田中絹代は、日本映画史を代表する大女優の一人。
私は田中絹代と乙羽信子の区別がなかなかできないのです。
(明らかに違うだろう、という声が聞こえてきそうですが)
そこで、乙羽信子をとりあげてみたいです。
乙羽信子はおしんにでましたね。
> 溝口健二監督は、田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中の方は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる。
> 演技で無理な注文をいつも俳優や女優にした溝口監督
> 田中は溝口監督に敵意すら感じたこともあると新藤兼人が
> 本に書いていたような気がする。
> 溝口監督は、新藤兼人にも脚本をボロクソにけなしたのだが
> 良い脚本を書いたとき評価したという。
> そのうち、新藤兼人と乙羽信子についても書きましょう。
何冊か図書館から本を借りてきました。
それを見ながらの書き込みです。
溝口健二監督の言動は印象的。
「心理を反射させてください」の一言で撮影が始まった。
(リアルに心と心をぶつけて演技をしてくださいという意味だろうと新藤兼人は解説しているが、いま考えても変な日本語だ)
「心理を反射させてください」というだけで具体的な演技指導はやらない。
役者がたまりかねて「どうやったらいいか教えてください」というと
溝口監督は「わたしは監督で役者ではないから、役者のマネはできません。あなたがたはカネをもらっているでしょう。カネだけの仕事をしなさい」と鋭く言い放った。
これをそばて聞いていた新藤兼人は、なんという傲慢な奴だと思ったという。
役者が教えてくれといっているんだから、監督の務めとして
こうやりなさいとか、こう台詞をいいなさいとか、いうべきではないかと書いている。
溝口健二監督は話題の多い監督だった。
新藤兼人が一生懸命書いた脚本を
溝口監督は「これは脚本ではありません。ストーリーです」とつきはなす。
がっかりした新藤は古書店に行って「近代劇全集」を見つけ
(お金がないから買えず)安いお金で借りてくる。
それを毎日読んでいるうちに、どんなドラマも
発端、葛藤、終末という三段階から成り立っていることを発見する。
(起承転結ということか)
郊外の練兵場で三日間泊まり込み訓練する教育召集が新藤兼人にもきた。
彼は急いで脚本を書いて、それを情報局募集の国民映画に投稿した。
これが幸運にも当選した。
溝口健二監督は、新藤兼人を祇園の乙部に連れて行って
お祝いをしてくれた。
彼は、溝口監督からほめてもらったことを妻に言うと
妻は泣いて喜んだ。
かれを陰で支えてくれた妻は岩手県の盛岡近くの雫石出身だった。
映画のスクリプターの仕事をしていたが、彼について京都まできてくれた。
しかし、この妻は戦時中で食べ物も少なく、無名の夫と貧しい暮らしをしている中で
とうとう結核で血を吐いて亡くなってしまう。
悲しみをこらえて戦後に、新藤兼人は「愛妻物語」の脚本を書く。
そして自分が監督になって映画を作った。
愛妻物語 1951年公開
http://movie.walkerplus.com/mv27175/
新藤兼人の妻だった久慈孝子を乙羽信子が演じた。