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[No.99] 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/14(Thu) 19:10
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竹内途夫:尋常小学校ものがたり

副題は 昭和初期・子供たちの生活誌
http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A%E2%80%95%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%83%BB%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%AA%8C-%E7%AB%B9%E5%86%85-%E9%80%94%E5%A4%AB/dp/4828817123

著者は岡山県の農家に生まれた。
父の兄たちは農家をつかず外に出て就職したが
三男の父は農家の跡取りとなった。
父の弟は東大を出たという。

主に著者の体験をもとに、当時の尋常小学校の児童たちの学校や家庭での生活を書いた本である。

学芸会とか遠足など少しだけ書いてあるが
当時の尋常小学校がどんなものであったかの説明するのも
戦前の子どもたちの学校行事の理解となるだろうから
関係のありそうなものをいくつか紹介します。


[No.102] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/15(Fri) 06:04
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> 竹内途夫:尋常小学校ものがたり
>
> 副題は 昭和初期・子供たちの生活誌

> 著者は岡山県の農家に生まれた。

> 主に著者の体験をもとに、当時の尋常小学校の児童たちの学校や家庭での生活を書いた本である。

運動会に父親は来なかった。
仕事で忙しく暇もなかったが、来ても恥ずかしい存在でみんなから笑われたという。

応援はもっぱら母親で、自分の子どもの出ている競技を見たら
ささっと帰らなくてはいけなかった。

のんびり見ていると、あとで姑の嫁いじめの材料にされたから
と書いてある。


[No.103] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:まや  投稿日:2013/11/15(Fri) 11:24
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男爵さん & みなさん、こんにちは!

> 副題は 昭和初期・子供たちの生活誌
> http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A%E2%80%95%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%83%BB%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%AA%8C-%E7%AB%B9%E5%86%85-%E9%80%94%E5%A4%AB/dp/4828817123
>
> 著者は岡山県の農家に生まれた。

 岡山県の農家のことはわかりませんが、私が小学校時代を過ごした福岡県の
筑豊地方は昭和初期に始まった石炭産業の中で発展を続けていたところでした。

 小学校はほとんどが尋常高等小学校と呼ばれ、高等科を併設していました。
生徒は小学校だけで終わるのでなく、中学校か女学校に進学することになって
いて、成績とか家庭の事情とかで進学できない児童は必ず高等科(2年課程)
に進むことになっていました。義務教育は小学校だけでなく、中学校か女学校
に進学しない児童は高等科に行かねばならないことになっていました。

 この尋常小学校がいつ国民学校になったか記憶にありません、たぶん小学校
在学中だったと思います。学芸会もあったと思いますが、それもほとんど記憶
していません。なにしろ戦時中でしたから教練というのもありましたし。

まや


[No.104] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/15(Fri) 12:28
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まやさん & みなさん、こんにちは!

> > 著者は岡山県の農家に生まれた。
>
>  岡山県の農家のことはわかりませんが、私が小学校時代を過ごした福岡県の
> 筑豊地方は昭和初期に始まった石炭産業の中で発展を続けていたところでした。

そうでしたか。
では五木寛之「青春の門」と重なりそうです。

>  小学校はほとんどが尋常高等小学校と呼ばれ、高等科を併設していました。
> 生徒は小学校だけで終わるのでなく、中学校か女学校に進学することになって
> いて、成績とか家庭の事情とかで進学できない児童は必ず高等科(2年課程)
> に進むことになっていました。義務教育は小学校だけでなく、中学校か女学校
> に進学しない児童は高等科に行かねばならないことになっていました。

中学校や女学校に進学しない児童は高等科に
というのは教育的には進んでいるようです。

この本に扱われている子どもたちは
(経済的な理由で)高等科にも行かれない子どもたちが多いようです。

>  この尋常小学校がいつ国民学校になったか記憶にありません、たぶん小学校
> 在学中だったと思います。学芸会もあったと思いますが、それもほとんど記憶
> していません。なにしろ戦時中でしたから教練というのもありましたし。

この本の年表を見ると
昭和16年に
小学校を国民学校と改称したことになっています。


[No.111] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/17(Sun) 15:47
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> まやさん & みなさん、こんにちは!
>
> > > 著者は岡山県の農家に生まれた。

綴り方について、この著者は母親とやりとりしたことを鮮明に覚えている。

五年生の頃だったか、めったに子どもの作品に目を向けない母親だったが
ある日のこと、気まぐれに息子の綴り方を見て
「今の綴り方はえぇなぁ。自分の思うとることを、そのまま書きさえすりゃえぇんじゃなぁ。そんなら、なんぼでも書けるがなぁ」
「そんなら、お母ちゃんの小学生の頃は。どげぇな綴り方を書きようたんなら」

「ふつうの言葉じゃいけんのじゃだった。そうじゃな、遠足ちゅう題だったら
  我等勝加茂小学校児童一同三百余名は、校長先生外九名の教師引率のもとに、去る五月二日山形仙へと遠足を挙行せり。
  当日天気快晴にして風柔く、空高く雲雀ののどかな囀りを聞く。道々の田畑の麦よく育ちて、緑の輝きは目も覚むるばかりなり。あちこちの農家の庭先には...
といったぐあいに、きれいな文章でなけりゃいけんのじゃった」

「ふぅん、えらいむつかしい綴り方だったんじゃなぁ」

おそらく、父も母も学校で書く文章は、こういった調子の文語体で書かされていたのであろう。


(父母が読めたであろう鴎外や一葉の文語体は、その子どもの時代に口語体の綴り方とともに遠くなっていった?)


[No.114] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/18(Mon) 05:56
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> > まやさん & みなさん、こんにちは!
> >
> > > > 著者は岡山県の農家に生まれた。

音楽の授業は歌うだけであった。
師範学校を出た男の先生は唱歌の指導ができた。とうぜんオルガンも弾けた。

都会から来た転校生がハーモニカを吹いて、格好のいいところを見せていた。

校長先生が唱歌好きなせいか、やたらと人の歌を聞く唱歌会が多かった。
この著者のクラスも週に二度唱歌の時間があった。

思い出す歌

一年生  日の丸の旗(白地に赤く) かめ(もしもしかめよ) 鳩

二年生  浦島太郎  ひばり(ぴいぴいぴいと) 金魚のひるね しゃぼん玉

三年生  春が来た 茶摘 汽車(今は山中) 虫の声


[No.115] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/18(Mon) 08:58
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> > > まやさん & みなさん、こんにちは!
> > >
> > > > > 著者は岡山県の農家に生まれた。
>
> 音楽の授業は歌うだけであった。
> 師範学校を出た男の先生は唱歌の指導ができた。とうぜんオルガンも弾けた。

思い出す歌

四年生  春の小川 村の鍛冶屋 広瀬中佐 牧場の朝

五年生  鯉のぼり 海(松原遠く) 冬景色 水師営の会見

六年生  朧月夜 故郷 児島高徳 遠足(鳴くやひばりの)


童謡  青い目の人形 あした(お母さま) あの町この町 雨(雨が降ります)


[No.124] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/19(Tue) 07:32
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> > > > まやさん & みなさん、こんにちは!
> > > >
> > > > > > 著者は岡山県の農家に生まれた。
> >
> > 音楽の授業は歌うだけであった。
> > 師範学校を出た男の先生は唱歌の指導ができた。とうぜんオルガンも弾けた。

校長の好きな唱歌会

校長先生は唱歌が好きだったせいか、唱歌会がよく開催された。
会の後に校長が得意満面で講評をするときは、幸福の絶頂にあるような感があった。

各学級は、必ず全員が出席した。
そのための練習はなく、平素の授業そのままを、みんなの前で再現するといった程度だった。

ほとんど斉唱だったが、五、六年や高等科の女の子は、輪唱や二部合唱もやっていたようだ。
時どき独唱の子がいたが、その子は翌月の唱歌会の日までスターになった。

毎月こうして人の歌を聞いていると、上手下手が子どもでもわかるようになった。

独唱で、五百人近い子どもをしーんと静ませる女の子がいたが、よい歌、よい歌い手は、たとえそれが子どもであっても、人の心をこうまで打つものかと感心した。


[No.126] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/19(Tue) 19:45
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> > > > > まやさん & みなさん、こんにちは!
> > > > >
> > > > > > > 著者は岡山県の農家に生まれた。
> > >
> > > 音楽の授業は歌うだけであった。
> > > 師範学校を出た男の先生は唱歌の指導ができた。とうぜんオルガンも弾けた。

著者の通う尋常小学校では、毎週金曜日の昼休みに小さな学芸会をした。

いつもの昼食を半分くらいの時間ですませて、小一時間くらいとってした学芸会。
だから、午後の授業はいつもより遅くはじまる。

みんな和室の裁縫室に集まる。

各クラスごとに一名か一組の代表が出て、何でも好きな芸をやって見せる。
芸といっても主に唱歌だったが、本や詩、綴り方の朗読、それから手品やクイズなどもあった。

著者はある夏休みに、旅回りの親子の手品師の芸を見て感動し
翌日よその畑から失敬した(いけませんね)スイカを手土産に芸人の宿を訪ねた。

手土産がきいたのか、手品の手ほどきを受けた。
これを学芸会で披露したらきっと受けると思って、夏休み明けの学芸会でやったところ
手ほどき通りにはいかず、種が丸見えで会場は大爆笑となった。

めったに笑わない校長先生も、思わず金歯を見せたほどの大喝采を博したのだ。

都会からの転校生は、楽器の演奏で格好いいところを見せた。

司会進行は高等科二年の正副級長が担当した。

司会が「つぎは六年の影山千夜子さんの独唱です」と紹介するのが、いかにも恥ずかしそうに見えた。
男の子が女の子を「さん」づけで呼ぶのは、晴れても曇っても、この場面をおいて他にはなかったから。

しかも、それが可愛らしい女の子だったりしたら、悪童たちがどっと湧くのも無理はなかった。


[No.128] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/20(Wed) 07:17
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> > > > > > まやさん & みなさん、こんにちは!
> > > > > >
> > > > > > > > 著者は岡山県の農家に生まれた。
> > > >
> > > > 音楽の授業は歌うだけであった。
> > > > 師範学校を出た男の先生は唱歌の指導ができた。とうぜんオルガンも弾けた。

著者の通う尋常小学校では、田舎の小学校なので、遠足はとにかく遠くへ歩いた。

あちこちの苗代の面が、春の陽にきらきら光り輝いているころ
全校児童そろっての遠足があった。

今の子は学年ごとに、年齢に応じて適当なところへ遠足
それもバスや電車で行くことを遠足といっているが
当時はそんな生易しいものではなかった。

一年から高等科二年までの全児童が、まったく同じ場所へ正真正銘の遠足をしたのである。

行き先は一年交替で、中国山地の山形仙か、日本原演習場の奥にある風の宮の祠に決まっていた。
道程は片道10キロメートル余りを往復する程度だった。

雨の時に川になるでこぼこ道は、平坦な道の三倍ぐらいの労力と時間を要したので
高等科の子には苦にならなくても、一年や二年の子には相当過酷な遠足であったろう。

いやはや よく行ったものですね。
子ども達も大変だったろうが引率の先生も。

その日は新しい草履をおろしてもらい、腰には自分の頭ぐらいのにぎり飯をつけて。
水筒を持っている子はまだいなかったという。(都会ではどうだったのでしょう)


[No.132] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/21(Thu) 12:29
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> 竹内途夫:尋常小学校ものがたり

> 著者は岡山県の農家に生まれた。
> 父の兄たちは農家をつかず外に出て就職したが
> 三男の父は農家の跡取りとなった。
> 父の弟は東大を出たという。

昭和4年は世界大恐慌の嵐が吹いて不況のどん底だった。
小津安二郎の映画「大学は出たけれど」の題名はそのまま時代を象徴する流行語となった。

それを地でいく男がいた。
それは一番下の叔父で、
叔父は東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。

卒業しても就職できず実家に帰ってきて待つこと半年
やっと就職できたのは神戸の小学校の代用教員だった。

翌年心配した祖父が様子を見てこいといって
著者に大枚五円を奮発してくれたので
海水浴をかねて従兄の中学生と一緒に二人で
岡山から神戸の叔父を訪ねた。

六畳二間の新築の家に、通い女中を使っての生活は結構満足しているように見えた。
それは暇を見つけて京都や奈良の古寺を訪ね、大学で専攻した美術史の仏像彫刻の研究ができるようになったためで
慣れぬ学校勤めのうさばらしにもなっていた。

勤め先の学校はずいぶん居心地が悪るそうで、校長や同僚とも打ちとけず
子どもの扱いにも当惑しているらしいことは、叔父の話しぶりから想像できた。

その日は、叔父は日直で不在だったので、何気なく開けた机の引き出しには
四枚の教員免許状と一通の辞令があった。
免許状は師範学校・中学校・高等女学校の国語、漢文、日本史、西洋史の文部省の教員免許状であり
辞令は小学校の代用教員を命じたものであった。
(師範学校は小学校の先生を養成する学校である。その師範学校の先生になれる資格があるのに、なぜ小学校では正式の教師になれないのだろうと疑問に思った)

代用教員でも、月額九十円を給するのだった。帝大出は違うものだなと思った。

約一年間辛抱した叔父は、神奈川県の平塚農学校の国漢の教師になった。
給料は月額八十五円になった。

貧しい百姓の子らは給料取りが羨ましかった。

給料取りも、学校の教師や駐在所の巡査のように、退職したら恩給がつくのが本物で、恩給のつかない役場の吏員やできたばかりの信用組合の事務員とははっきり区別していた。

恩給のつく本物のサラリーマンの最たる者が、村の学校の校長先生だった。

校長は百二十円の給料で、教頭は九十円、師範での若い先生は六十円、代用教員は三十円の月給だった。

子ども達は計算した。米一俵を六円とすれば
校長は月二十俵、年に二百四十俵の米を家に運ぶことになる。
当時の農家の場合、一反五俵が平均収量だったから、校長は一人で五町歩近い田圃を耕す大百姓ということになる。

一町歩を作る百姓は、家族三人ぐらいが汗水たらして働き、収穫する米は年五十俵、金にして三百円ぐらいだった。

子だくさんの当時は、このうち飯米として少なくとも半分ちかくは確保しなくてはならなかったから
売る米は二十五俵で、百五十円から二百円の収入ということになる。

代用教員でも、月給三十円は、米にすれば月五俵、年六十俵になるから
たった一人で一町二反の田圃を耕す中規模百姓ということになる。


[No.133] Re: 尋常小学校ものがたり 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/21(Thu) 16:21
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> > 竹内途夫:尋常小学校ものがたり
>
> > 著者は岡山県の農家に生まれた。

著者は昭和2年に尋常小学校に入学した。

日本美術学校洋画科を経て、法政大学高等師範部を大戦勃発により繰り上げ卒業。

現役兵として砲兵連隊に入隊。任官とともに転科し、船舶部隊幹部として南方諸作戦に参加。
玉砕部隊の生き残りとして辛くも生還する。

復員後は中学。高校の美術教師、編集者を経て幼児の絵の研究に入り、日本保育美術研究会を主催。

だから、この本にはたくさんのイラストが描かれてあるが、当時の時代風俗を正確に反映していると思われる。
女子生徒の和服と洋服の混在している当時の様子などは興味深い。

この本の紹介を数回にわたって行ったが、最後に著者のあとがきの一部を紹介してこの一連の記事を終えたいと考えます。

   −−−−−

本書は、あくまでも昭和という時代を生きた者の証言という立場を貫いたつもりであるが、筆を進め、挿絵を描く間に絶えず脳裡を往き来した思いは、子どもの頃の義務教育が、国の将来にいかに大きく影響するかということと、長い歴史の中で培われてきた文化や伝統や、固有の風土を無視した教育は、決して堅実な発達を見せないということだった。

前者については、大戦前の日本の義務教育に誤りがあったとすればすぐ説明がつく。
後者については、たとえば西欧の資本主義国圏に見る民主教育は、各国が決して同じではなく、それぞれの国柄に合った独自の発達を見せていると言えば納得できるはずである。

戦に敗れて百八十度の転換を強いられた日本の教育も、もうそろそろ日本固有の文化や伝統を取り込んだ民主主義のあり方を考えてもよいのではないかと思う。
たとえば資源に乏しい日本の、物を大切にして無駄な消費を戒めた質素倹約の美徳も、先祖を尊び、両親を敬い、年寄りを大切にする美風も、国家主義でも軍国主義でもない、日本の風土にあった昔からの風習で、今の民主教育に矛盾するものではないと思う。

私は保護司として二十年余り、多くの非行や犯罪少年の更生を担当してきたが、最近特にこの思いを強くする。

本書が戦争を体験した人には、このうえない回顧と反省の書であってほしいし、戦争を知らない人には、昭和を理解するうえでの参考のひとつにでもなればと思い、また、教育に携わる人や、子どもの親である人には、これからの日本の義務教育を考えるうえでの、ささやかながらその資料のひとつにしていただければ幸いである。