(毬つき歌?手遊び歌?)
一かけ二かけ三かけて 四かけて五かけて橋を架け
橋の欄干 腰を掛け はるか向こうを眺むれば
十七八(じゅうしちはち)の姉さんが
花と線香手に持って
「もしもし姉さん どこいくの」
「私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘(むすめ)です
明治10年〇〇〇〇(〇〇〇〇はうろ覚えで自信が無いです 他はおおよそ間違いないと思います)
切腹なされた父上の お墓参りにまいります」
お墓の前で手を合わせ なにやらかにやら(←ここもちょっと自信無いかな) 拝んだら
お墓の中から魂が ふうわりふうわり
くるくる回ってすっとんとん♪
西郷さん自刃の日をネットで調べましたら
<明治10(1877)年9月24日未明、官軍の総攻撃が始まると、西郷隆盛は桐野利秋、村田新八などの諸将とともに岩崎谷を下って行く途中で銃弾を受け動けなくなり、別府晋介の介錯で自決した。西郷洞窟から約600m坂を下った地。>
と ありました
↑鹿児島市城山から下った岩崎谷という所の近くにある 西郷南洲翁の終焉の地
幼少時 この近所に住んでいた私は ここは遊び場でした
戦後も大分過ぎた頃のお話、1990年頃だったろうか、
台北の公園を散歩していたら紙飛行機を飛ばしている異様な風体の老人がいた。
台湾にも紙飛行機があるのかと何気なく見ていた。
紙飛行機を拝むようにしてツンツンして飛ばす、そして空を見上げる。
せいぜい7、8mしか飛ばない飛行機に歩み寄ってまた同じことを何度も何度も一心不乱に繰り返す。
明らかに普通の人ではないな、と眺めていると其の老人が近寄ってきて私に話し掛けて来た。
目が据わっていて若干恐怖を感じる。
「あなた、日本人だよね、見れば直ぐ分かるよ」
ちゃんとした日本語だった。
自分は何処の生まれでどういうものだ、と語り出したようだった。
殆ど覚えていないがしっかりと記憶に残っている言葉がある。
「私の先生は日本人の女先生だったんだよ、その先生から紙飛行機の作り方を教わったんだよ、
優しい先生だったよ。だけどなぁー、、」
益々据わって来た目で私の目を覗き込む、ちょっと恐怖を感じてその場を離れた。
何か本能的に、切ない話が続くような気もした。
今にして思うともっとお話を聞いてあげれば良かったと切に心残りだ。
今、朝ドラで話題になっているが、、。
終戦後初めて上京した折に叔父に連れて行って貰ったのは日劇と後楽園だった。
日劇では当時人気絶頂だった笠置シヅ子の公演とのことで胸をときめかしていた。
ところが笠置シズ子が何かの都合で休演になり代演が淡谷のり子と聞いてガックリしたものだ、
ヘンテコな厚化粧のおばさんには興味がなかったのだ。
ところが聴いているうちにいつの間にかその哀愁を帯びた妖しげな歌声に引き込まれていた。
低音かと思うとビブラートの効いた高音まで音域の広さにも驚いたものだ。
この日を境に淡谷のり子フアンになったのだった。
後楽園は巨人中日戦だった。
憧れの川上や青田、千葉を間近で見てこの上なく興奮したものだ。
巨人のピッチャーは川崎、中日は服部。
西沢のホームランで贔屓の巨人が負けて悔しかったこと!
今でも覚えている巨人のオーダー、
一番千葉、二番白石、三番青田、四番川上、五番平山、六番呉、七番山川、八番川崎、九番内堀。
、、でした。
不思議な国のアリスと戦後の話
私の両親は戦後福岡市の大濠公園近くの商店街で「薬局」を営んでいました。
この大濠公園の側には 郵政省の出先で保険局の茶色の大きな5~6階建ての建物がありました。(現在も保健局としてあります)。福岡大空襲で焼け残ったこのビルは朝鮮戦争時は占領軍に接収されていました。 この当時焼け残っていた大きな民間の家は ほとんど占領軍関係者の住居となっていました。
歳の暮れに その軍から薬局へ電話が入りました。
「モシモシ・・・スミマセン センジツ お願いしました○○です。」
「順番がきましたので △△に電話の側で待つ様に 伝えて頂けませんでしょうか?」
事前に話はついていたと見え 兄さんが△△さん宅へ連絡に走りました。
外人の△△さんは 娘さんを連れて走ってきました。
私と同年齢のような娘さんは 冬なのに半袖の真っ白なドレス姿でした。
真っ赤なホッペと 金髪は初めて見る 生きたフランス人形でした。
母さんは急ぎウールの濃いいピンク色の私のマフラーをその可愛い子にかけてあげていました。
練炭火鉢しかない 当時の日本の家屋は寒かったのです。
なかなか時間になっても国からの電話が入らず 女の子は持参した「本」を見ていました。
店先では近所の人も交え たどたどしい 英語の辞書と日本語の応答で やっと
ごの方はオランダ人で明日帰国するのに東京経由の変更を家族に知らせる電話だという事がわかりました。
連合軍の一斉の帰国で連絡用の電話回線が足りなくなったので一般家庭へ電話線の利用の要請があったのだと 後で母さんから聞きました。
彼女は持参の外国の本を見せてくれました。それは「不思議の国のアリス」でした。私は父さんが商店街の古物商から手に入れてくれていた少年少女世界文学全集に載っていたので お互いの本をみながら 言葉が分からないでも挿絵で充分 分り合えました。
どうしてか私は唄を歌い始め 又、女の子もお父さんと歌ってくれました。
オランダからの電話が繋がり 親娘は又走って帰って行きました。さよならと言ってくれました。
次の日に ピンク色のマフラーと一緒にクリスマスケーキが届きました。大きなバラの花をたくさん飾ったデコレーションケーキでした。一切れずつ私が隣近所にもってまわりました。
親子で唄ってくれた歌は「のばら」だったのです。(かあさんはそう言ったのです。)
私が唄った歌は「可愛い魚屋さん」 と 「みかんの花咲く丘」 でした。
これは、特攻に行って帰ってきた叔父の話です。
高倉健主演の「蛍」という映画をご覧になったでしょうか?
特攻で生き残った主人公の生き様、戦友の家族を訪れ墓参をする、戦友は蛍になって帰ってくる。この映画の一部は、叔父がモデルになっています。
戦時中に叔父は、飛行訓練をあちこちでやり、大分の基地から南方のトラック島や歌になったラバウルなどの戦地へ行き、戦闘を経験している。
この間何回も死地をさまよっている。
最後は、鹿児島の国分基地から特攻出撃し、戦闘で傷を負い意識朦朧の体で知覧基地に不時着した。知覧基地においてある零戦は叔父が乗っていた物だと思う。
詳細は、叔父の書いた「水平線:ソロモンから沖縄特攻まで 零戦・艦爆搭乗員の記録」という小冊子に記してある。題字は父が書いた物である。
知覧の記念館に置いてあったと思う。
南日本リビング新聞社の刊行「零戦にかけた男」でもある。
戦後、警察予備隊・自衛隊と仕え、退官後は日本国中の戦友の墓参りをされた。
海外のメディアや、米軍で沖縄戦で戦った元戦闘機乗りも叔父を訪ねてきた。
「戦争は絶対にしてはならない」。激戦を必至でくぐりぬけた叔父の言葉である。
小・中学校での講演もずいぶんやった。
数年前に亡くなったが、戦闘の傷跡の破片がたくさんあったと聞いている。
晩年の叔父に、どこか行きたいところはありませんか と問うたことがある。
特攻の訓練をした台南に碑がある。そこに行きたい。残念ながら実現しなかった。
気骨のある叔父であった。
- Joyful Note -