昨日、2023年8月16日、京都五山送り火が無事行われました。
テレビの生中継で五山送り火を観ていて思い出したことを、誰にも言わずに忘れてしまう前に昭和の部屋に書かせていただくことにいたします。
父は明治40年京都生まれ、京都育ち。祖父は明治10年京都生まれ、京都育ち。
もう、60年ほど前のことです、
『あんたのおじいちゃんから、長岡の山(現 長岡京市)に「竹に鈴」という送り火が点ったのを若い頃、観たことがある。観たことはないけど「妙法」より北の山に「イ」とか「ニ」とかもあったらしいと聞いたことがある。
昔は、もっとたくさんの山で送り火が灯ってたらしいなぁ』
こんな話、父から聞いただけで、書物で確認したわけでも、報道されていたわけでもありません。これが本当に正しいのかわからないのですが、まんざら嘘ではないと思います。もし、詳しくご存知の方あればご教示の程お願いします。
有る画期的な事業がまもなくはじまります。始まったら私は、真赤なスポーツカーに枯葉マ−クを2つ付けて日本一周をやろうと計画しています。
自分が作った温泉施設と温泉歩行プ−ルで体を鍛えています。
平和資料館のある本川小学校の正門を入ると、ふいに目の前が、明るくなった。桜は八分咲き。ヒヤシンスの花は鈴なりに咲き、児童の名の書かれた鉢の苺は、白花を覗かせている。新入生を三日後に迎える前庭の華やぎの一隅にその童子像はあった。
「あんなところにお地蔵さまがいる」と発せられた少年の声がなければ、気が付かないほど、ひっそりと立っていた。
「背に詩が刻まれています」案内の方に教られ覗き見ると文字が刻まれているのが読み取れた。
―消えし児の還りて咲かむ海棠の花―
広島の中洲を造った太田川は、相生橋から元安川と本川に分かれ海に注いでいる。1945年8月6日、午前8時15分、原爆搭載機B29エノラ・ゲイの爆撃手は、投下目標のT字型の相生橋を照準に捉えて、自動装置のスイッチを押し、原爆を機体から放った。原子爆弾は上空580mで閃光を放って炸裂し、灼熱の火球を作った。火球の中心温度はセ氏10000℃を超え、1秒後には、最大直径280mとなり、周囲は4000℃近くに達した。爆心地からもっとも近い学校の本川国民学校(現本川小学校)の建物は、瞬時に火を噴き、登校していた児童及び教職員は、即死に近い状態で全滅した。と記録されている。
被爆死した児童の父が小学校を訪れた際に、当時の平川校長が、句を贈った。昭和53年句を刻んだ童子像が安置され、追悼記念樹としてハナカイドウが植えられたと校史にはある。バラ科のハナカイドウは、画のように花柄が長く垂れることから垂糸海棠とも呼ばれている。
この春も本川小学校のハナカイドウは、花柄を伸ばし、付けた蕾を次々に咲かせていることだろう。春になるとあたりまえに咲く、あたりまえでない有難さ。
参考文献:「ヒロシマ散歩」植野浩著・「図録ヒロシマを世界に」広島平和記念資料館編集
掲載誌:俳句同人誌『かつしか』第20号2010年7・8月
掲載Webサイト:Honkawa Peace Museum http://www7.plala.or.jp/honkawa-pta/peace.htm
平和資料館のページへ>校内の資料>ねむれる花~海棠~
昭和60年(1985年)4月に、名古屋市の大学を卒業して、地元のある機械メーカーに就職した私は、会社などの組織で「働く」ということを全く知らなかった。卒業前までに働いた経験といえば、家庭教師を筆頭に、大学の学生課で見つけたアルバイトを少しやっただけである。
だから、入社後、身に起こることは何もかも「働くって、そういうものなのだ」と思い込み、疑問を感じるための知識や体験、ましてや器も度胸もない状態だった。
以下に、当時、新人女子社員が体験した昭和終盤のある職場風景を話そう。今は仕事からほぼ引退した身分で、知識や体験、器も度胸もたっぷりあるので、多少皮肉交じりだが、うぶな自分の仕事に関する思い出を忘れないうちに綴っておこうと思う。
まず、給料。就職した会社では、四大卒で男子は一律13万円、女子は11万円。2万円の差があったが、この時代、性別で給料差があることは当たり前。特に四大卒の女子を一年前に初めて行ったこの会社では、21・22歳のこうした女子社員が高卒、短大卒よりも長く勤務するとは思われていなかったようで(1,2年で『寿』退社するとみなされた)、大学で学んだ知識を生かした仕事につかせてそれに見合う待遇を…という発想ではなかったようだ。終身雇用制度のレールに乗った男子社員と、そうでない女子社員を同等に扱ってはいけないのだ…と、当時の私は心のどこかで不満はあったものの、この男女差別を正当化していた。
そして、お茶くみ。暗黙の了解であったが、新入女子社員は、男性社員に将来自分の妻になれそうな人かどうかをチェックされる。毎朝女子社員は、同じ部署の男性社員にコーヒーやお茶を(極端な例では、各自のマイカップに、砂糖やミルクのお好みもちゃんと反映して)配る。その時、ちょっとした雑談まで交わせるようであれば、得点も上がる。私の母なぞは、私がちゃんと相手の目を見て優しい笑みを浮かべているか、心配していた。
給湯室には、こんな看板もあったっけ。『男性の皆さま、使い終わった湯呑は流しの中に置いてください。女子社員、自分の湯飲みは自分で洗え。』今考えると、恐ろしい。これは先輩の女子社員が掲げたものだった。女子社員の間には『当番』と書かれた札が、毎週どこかの机上に置かれていた。当番になると、仕事の合間を縫って、給湯室の流しにたまった湯呑やカップを洗いに行くのだ。洗った湯呑などには最後にきちんと熱湯をかけて、早く乾燥するようにするのよ…と、先輩の女子から、ありがたいアドバイスも頂いた。
週一回の床掃除も忘れてはならない。毎週金曜日の朝は、職場に備え付けられた箒と塵取りをもって、女子社員は所属部署の床を掃く。工場、日本と海外支店、合わせて数千人の社員は雇えても、清掃業者は雇えなかったのだろうか?
(もちろん、私にはちゃんとした責任のある業務があった。海外事業部に配属され、製品輸出のための準備と書類作成、顧客と工場の間に入ってスケジュール調整などである。)
今年2022(令和4)年は、1872(明治5)年10月14日に日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業してから、150年周年ということですが、私の鉄道の思い出の筆頭は新幹線です。
1964(昭和39)年、新幹線開業直前の9月6日に、試乗券で東京駅から小田原を往復したのが始まりです。
新幹線との写真ばかりが貼られたアルバムの1ページを見ると、8歳だった私は、新幹線の乗車口の前で、姉と一張羅を着て写真におさまっています。母もこの試乗には、一緒だったのですが、カメラ撮影に徹していたのか写真には写っていません。姉も私も母の手作りのお出かけ用のワンピースを着ています。当時住んでいた家から近い渋谷の洋服生地屋「東亜」に母に付き合っていき、選んだ生地が数日後にワンピースになっていました。その頃あまり写真を撮られるのが、好きでなかったけれど、この時ばかりは、母の意気込みと周りの高揚感に圧倒されたのかポーズをとっています。
読んでいた子供向けの雑誌では新幹線の話題が持ち切りで「夢の超特急」と書かれていました。車内に入った瞬間、そのカラフルなシートに「これが夢の超特急だわ」と子供心に納得したことを記憶しています。「ただいま時速200キロ」という車内アナウンスも今も耳に蘇ってきます。
1964年から走った0系は2008年に引退しましたが、この0系の「ブライトブルー」は、今も鼓舞される色となっています。
ブライトブルー:
16進表記: #003F6C
RGB: (0, 63, 108)
マンセル値: 4.5PB 2.5/7.8
参考: 鉄道ジャーナル通巻217号 特集「鉄道車両 色彩の美学」
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