■初めてのデジタル体験
▼最初のデジタル体験は、1983年に発売の8bit PCの名機と言われたソード・コンピューターでした。
ソードは、ノープログラミング言語PIPSを搭載していました。
ノープログラミング言語は、ルール沿ってコマンドを書くと、素人でも簡易なプログラムが書けました。
▼当時の8ビットPCは、MS-DOSが普及する以前で、殆どがBASICを搭載していた。
市販ソフトなどまだ無く、BASICで自作のプログラムを動かすという時代でした。
▼PIPS-IIIは、エクセルのような表計算機能があり、EXcellのような行と列の構成で60行使えました。
その数値を単純な円グラフか、棒グラフにすることができた。
▼当時のPCは、HDが大きく40メガの容量でも、その重量は20㎏超える超重量級で、デスクの四分の一を占拠しました。
更にFDは8インチで、LPレコードの大きさでした。
▼当時は手書きの見積書と、手書きの資料の時代に、見積書だけでなく、得意先の実績をグラフ化したり、
売筋分析をグラフ化し、得意先へ持ち込んだので注目を受けました。
▼また会計処理では、まず振替え伝票の形式で、コード打ち込む窓を作り、特定のページにそのデーターを書き込みさせる。
例えば1100とコードを入力すると、変換表のデーターから「現金」という文字が記入される。
▼相手科目のコード5111と打つと「交通費」と変換される。適用欄はすべて手打ちする。
これが仕訳帳に一覧でデーターとして作成される。
▼この仕分帳のデーターから、借り方と貸し方別に、それぞれのページに「文字列照合」で転記させるコマンドで仕分記入し、
各ページ毎に合計させる。その合計を、PLやB/Sに転記させると、目的の財務諸表が完成するという仕組みでした。
▼それまでPCプログラムには無縁でしたが、プロの「販売管理」プログラムで、コマンドの使い方を研究し、
試行錯誤てプログラムを書き、試運転でバグを取り除き、完成した時の喜びは未だに忘れられません。後にも先にも、
自作プログラムはこれ一本のみであり、大変な思い出である。
▼その後、16ビットマシンが主流となり、バソコンもNECのPC-9801シリーズに切替り、市販ソフトが次々に販売された。
▼この懐かしい「PIPS」は現在は東芝に引継がれて進歩し、Windowsバージョンもあるようです。
しかも、簡易言語「The PIPS」としてフリーソフトウェア化されています。
▼PIPSの名の由来は、Pan(汎用)Information(情報) Processing(処理)Systemの頭文字から来ているという。
更に「PIPSクラブ」というホームページがあり、愛好家が独自に使い方を研究発表している事を知った。
終戦の日5才7か月の私、我らの『履物』は「下駄」か「わら草履」
それも履いていれば良いほうで、二本の歯はとうに減ってしまって、
本体の“台”が後ろの部分から磨り減り、鼻緒の穴に届いてその
用をたさなくなるまで履いていた子が多勢いた。
わら草履も減って、減って、かかとが地面につく状態の物を平気で
履いていた子もいた。
“雨”に濡れた草履の重かったこと、気持悪かったこと。
『それ』しか、なかったから・・・
それ以上に履物が全く無くて、裸足で飛び回っていた子も沢山いた。
鼻緒が切れると、親がはぎれや手ぬぐいの端っこを切り裂いて
器用にすげ替えてくれた。
大きくなると、自分でもすげ替えた。
私自身、食糧事情やこの点においても、貧しいながらも恵まれていた
方かもしれない。
親が頑張っていてくれたということだろう・・・
終戦の翌年21年に小学校入学を迎えているが、学校に上がり、
『靴(ズック)』を買ってもらったのはいつ頃だったのだろう?
ただ、嬉しくて天にも登るような気持で、履き下ろすまで、床の間や
枕元において、光り輝く「それ」を眺めていた光景は今も覚えている。
自然に『笑み』がこぼれていた。
貧しくとも、“心豊かな”少年期を過ごせたことを今になって、感謝
している。
物の豊かすぎる今、心の貧しい人がいかに多いか・・・
8月15日、終戦(敗戦)の日。
祈ろう!“核廃絶”と未来永劫の“世界平和”!!
77年前、西方の彼方にきのこ雲とひとつの閃光が走った。
焼けただれた皮膚をボロ布のようにぶら下げた人たちが
助けを求め、水を求め、元安川の水面を覆い尽くした。
今宵、その水面を平和を祈る「供養の灯篭」が埋め尽くす。
「繰り返しません、過ちを・・・」
この誓いもむなしく、今も世界のあちこちで繰り返される
あまたの「戦争」や「核実験」
人類の“愚かさ”“みにくさ”“強欲さ”
子や孫に伝えたい『平和の尊さ』
それを崩す“おろかな輩”を、決して許すまじ!!
『御霊』よ、どうぞ安らかに・・・
合掌
8月15日、第二次世界大戦終了(敗戦)の日。
今、82才、戦争をおぼえている最後の世代か・・・・・
世界のあちこちできな臭い今、声を大にして叫ぶ!!
「戦争」絶対反対!!
地球上から「核兵器」のすべてを廃絶せよ!!
戦後77年、8月15日に思うこと! 祈ること!!
灯火管制を経験した世代
「空襲警報!」のサイレンの音や、叫ぶ声におびえた世代
防空壕に入った世代
防空頭巾をかぶった世代
夜空を走る敵機を探すサーチライトの光を見上げた世代
炎を上げて木の葉のように大阪の空を舞い落ちる戦闘機を、
京都・伏見の地から見上げていた世代
トラックに棒立ち、満載状態で運ばれてきた、焼けただれた
連合軍の兵士たちを目撃した世代
戦中戦後、いつも飢えていた世代
どれも、経験したくない、見たくない風景!!
「全世界恒久平和」を強く願う!!
戦争絶対反対!!!
母の記憶から
今は亡き、昭和5年生まれの母に、20年以上も前に聞いたおぼろげな記憶です。
私の祖父は徳島県鳴門市で塩業に携わる仕事をしていました。
7人兄弟の母は、終戦前に長兄(当時24歳)を出征先で亡くしています。
出征前の長兄にセルロイドの筆箱を買ってもらった唯一の思い出を、いつも嬉しそうに話していた顔が目に浮かびます。
終戦直後の混乱期、15歳の母は直ぐ上の姉と共に、塩の入った風呂敷包みを担ぎ、少し離れた村の農家へ、米やその他の食べ物と交換する為に汽車に乗って出かけたそうです。
何軒も廻って、やっと交換してもらったわずかな食料を手に入れた帰り、汽車の中で憲兵の見廻りに合ったそうです。
見つかれば取り上げられると思った時に、大きなマントを着た見知らぬお爺さんが、すっぽり隠してくれて、事なきを得たそうでした。
2022/07/31 E Pili Mai
- Joyful Note -