今、朝ドラで話題になっているが、、。
終戦後初めて上京した折に叔父に連れて行って貰ったのは日劇と後楽園だった。
日劇では当時人気絶頂だった笠置シヅ子の公演とのことで胸をときめかしていた。
ところが笠置シズ子が何かの都合で休演になり代演が淡谷のり子と聞いてガックリしたものだ、
ヘンテコな厚化粧のおばさんには興味がなかったのだ。
ところが聴いているうちにいつの間にかその哀愁を帯びた妖しげな歌声に引き込まれていた。
低音かと思うとビブラートの効いた高音まで音域の広さにも驚いたものだ。
この日を境に淡谷のり子フアンになったのだった。
後楽園は巨人中日戦だった。
憧れの川上や青田、千葉を間近で見てこの上なく興奮したものだ。
巨人のピッチャーは川崎、中日は服部。
西沢のホームランで贔屓の巨人が負けて悔しかったこと!
今でも覚えている巨人のオーダー、
一番千葉、二番白石、三番青田、四番川上、五番平山、六番呉、七番山川、八番川崎、九番内堀。
、、でした。
不思議な国のアリスと戦後の話
私の両親は戦後福岡市の大濠公園近くの商店街で「薬局」を営んでいました。
この大濠公園の側には 郵政省の出先で保険局の茶色の大きな5~6階建ての建物がありました。(現在も保健局としてあります)。福岡大空襲で焼け残ったこのビルは朝鮮戦争時は占領軍に接収されていました。 この当時焼け残っていた大きな民間の家は ほとんど占領軍関係者の住居となっていました。
歳の暮れに その軍から薬局へ電話が入りました。
「モシモシ・・・スミマセン センジツ お願いしました○○です。」
「順番がきましたので △△に電話の側で待つ様に 伝えて頂けませんでしょうか?」
事前に話はついていたと見え 兄さんが△△さん宅へ連絡に走りました。
外人の△△さんは 娘さんを連れて走ってきました。
私と同年齢のような娘さんは 冬なのに半袖の真っ白なドレス姿でした。
真っ赤なホッペと 金髪は初めて見る 生きたフランス人形でした。
母さんは急ぎウールの濃いいピンク色の私のマフラーをその可愛い子にかけてあげていました。
練炭火鉢しかない 当時の日本の家屋は寒かったのです。
なかなか時間になっても国からの電話が入らず 女の子は持参した「本」を見ていました。
店先では近所の人も交え たどたどしい 英語の辞書と日本語の応答で やっと
ごの方はオランダ人で明日帰国するのに東京経由の変更を家族に知らせる電話だという事がわかりました。
連合軍の一斉の帰国で連絡用の電話回線が足りなくなったので一般家庭へ電話線の利用の要請があったのだと 後で母さんから聞きました。
彼女は持参の外国の本を見せてくれました。それは「不思議の国のアリス」でした。私は父さんが商店街の古物商から手に入れてくれていた少年少女世界文学全集に載っていたので お互いの本をみながら 言葉が分からないでも挿絵で充分 分り合えました。
どうしてか私は唄を歌い始め 又、女の子もお父さんと歌ってくれました。
オランダからの電話が繋がり 親娘は又走って帰って行きました。さよならと言ってくれました。
次の日に ピンク色のマフラーと一緒にクリスマスケーキが届きました。大きなバラの花をたくさん飾ったデコレーションケーキでした。一切れずつ私が隣近所にもってまわりました。
親子で唄ってくれた歌は「のばら」だったのです。(かあさんはそう言ったのです。)
私が唄った歌は「可愛い魚屋さん」 と 「みかんの花咲く丘」 でした。
これは、特攻に行って帰ってきた叔父の話です。
高倉健主演の「蛍」という映画をご覧になったでしょうか?
特攻で生き残った主人公の生き様、戦友の家族を訪れ墓参をする、戦友は蛍になって帰ってくる。この映画の一部は、叔父がモデルになっています。
戦時中に叔父は、飛行訓練をあちこちでやり、大分の基地から南方のトラック島や歌になったラバウルなどの戦地へ行き、戦闘を経験している。
この間何回も死地をさまよっている。
最後は、鹿児島の国分基地から特攻出撃し、戦闘で傷を負い意識朦朧の体で知覧基地に不時着した。知覧基地においてある零戦は叔父が乗っていた物だと思う。
詳細は、叔父の書いた「水平線:ソロモンから沖縄特攻まで 零戦・艦爆搭乗員の記録」という小冊子に記してある。題字は父が書いた物である。
知覧の記念館に置いてあったと思う。
南日本リビング新聞社の刊行「零戦にかけた男」でもある。
戦後、警察予備隊・自衛隊と仕え、退官後は日本国中の戦友の墓参りをされた。
海外のメディアや、米軍で沖縄戦で戦った元戦闘機乗りも叔父を訪ねてきた。
「戦争は絶対にしてはならない」。激戦を必至でくぐりぬけた叔父の言葉である。
小・中学校での講演もずいぶんやった。
数年前に亡くなったが、戦闘の傷跡の破片がたくさんあったと聞いている。
晩年の叔父に、どこか行きたいところはありませんか と問うたことがある。
特攻の訓練をした台南に碑がある。そこに行きたい。残念ながら実現しなかった。
気骨のある叔父であった。
私は、京都在住の一人暮らしで、2023年に95歳になりました。
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8月になると、78年前の戦争を思い出します。
私は、女学校1年生(14歳)の時、学徒動員で軍需工場へ徴収されました。
落下傘(パラシュート)と飛行機の布を織っていました。
落下傘は、5ミリの糸の切れ目も許されません。
開いた時そこから破れるので、その人の命がかかっているのです。
飛行機の布は何に使うのか知らされず、ウワサでは木製の飛行機に
貼る布だったようです。
ナイロンは戦後の商品で、当時は絹が繊維として一番強かったのです。
食事は、芋のつるやひじきに、お米が少し混じっているご飯と、具のない味噌汁でした。
時には乾パン1袋だけの時もありました。
みんなお腹が空いて水をガブガブ飲み、青い顔をして、むくんで栄養失調でした。
ハダカ電球の下で、厳しい立ち仕事で疲労困憊です。
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クラス50名の生徒に1名の先生がつき、朝礼で日本軍の成果だけを聞かされました。
新聞もラジオもないので、劣勢は知らされず・・・
私達は腹ペコで、戦争どころでは無く、考える力も無く、ただただ生きていました。
大東亜戦争(太平洋戦争) 聖戦(侵略戦争) 玉砕(全滅)
神風(台風) 鬼畜米英〔強国米英) 何もかもの言葉ががウソでした。
女学生(14歳~16歳)の私達が造る兵器に頼らねばならない国が
勝てるわけありません。
戦争は、勝っても負けても人が死にます。
平和は、95歳老女の唯一つの願いです。
昭和時代の回想
▼物心がついたのは、3~4歳くらいで、昭和21年 ~22年ころであった。
その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では
福岡県朝倉郡筑前町あたりであった。
筑前町には母方の先祖の家があり、そこへ身を寄せていた。
▼祖父と父親は、戦前は福岡の中心的繁華街の東中州人形町に店舗を構えていた。
今日で云う生菓子の製造・直売で、それなりに成功していたらしい。
当初は福岡県飯塚市で事業を開始し、それなりに成功し、
祖父は星雲の志を抱いて東京進出を考えたらしい。
▼ところが東京の地価が想像を超える価格だったので諦め、
九州一の繁華街の東中州で開業したという話を、母から聞いたことがある。
▼やがて福岡市街も空襲があり、焼け出されて
母方の実家があった福岡県朝倉郡筑前町へ一時的に身を寄せていた。
そして今日で云う農協のようなところから依頼され、一時的に大きな精米所を任されていた。
▼この精米所の前が、子供目線では先が見通せないほど広大な広場で、
所々に大きな穴が開いていた。
これが、かつて東洋一と云われた「陸軍大刀洗飛行場」であった。
▼この飛行場から「海軍鹿児島基地」の鹿屋空港へ戦闘機が飛び立ち、
やがては南海の空へ特攻機として散っていったという歴史があります。
▼私の叔父たちは、士官学校卒の軍人だったため、終戦直前に南方方面に派遣され、
あえなく戦没者の仲間入りしている。
- Joyful Note -