これは、特攻に行って帰ってきた叔父の話です。
高倉健主演の「蛍」という映画をご覧になったでしょうか?
特攻で生き残った主人公の生き様、戦友の家族を訪れ墓参をする、戦友は蛍になって帰ってくる。この映画の一部は、叔父がモデルになっています。
戦時中に叔父は、飛行訓練をあちこちでやり、大分の基地から南方のトラック島や歌になったラバウルなどの戦地へ行き、戦闘を経験している。
この間何回も死地をさまよっている。
最後は、鹿児島の国分基地から特攻出撃し、戦闘で傷を負い意識朦朧の体で知覧基地に不時着した。知覧基地においてある零戦は叔父が乗っていた物だと思う。
詳細は、叔父の書いた「水平線:ソロモンから沖縄特攻まで 零戦・艦爆搭乗員の記録」という小冊子に記してある。題字は父が書いた物である。
知覧の記念館に置いてあったと思う。
南日本リビング新聞社の刊行「零戦にかけた男」でもある。
戦後、警察予備隊・自衛隊と仕え、退官後は日本国中の戦友の墓参りをされた。
海外のメディアや、米軍で沖縄戦で戦った元戦闘機乗りも叔父を訪ねてきた。
「戦争は絶対にしてはならない」。激戦を必至でくぐりぬけた叔父の言葉である。
小・中学校での講演もずいぶんやった。
数年前に亡くなったが、戦闘の傷跡の破片がたくさんあったと聞いている。
晩年の叔父に、どこか行きたいところはありませんか と問うたことがある。
特攻の訓練をした台南に碑がある。そこに行きたい。残念ながら実現しなかった。
気骨のある叔父であった。
私は、京都在住の一人暮らしで、2023年に95歳になりました。
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8月になると、78年前の戦争を思い出します。
私は、女学校1年生(14歳)の時、学徒動員で軍需工場へ徴収されました。
落下傘(パラシュート)と飛行機の布を織っていました。
落下傘は、5ミリの糸の切れ目も許されません。
開いた時そこから破れるので、その人の命がかかっているのです。
飛行機の布は何に使うのか知らされず、ウワサでは木製の飛行機に
貼る布だったようです。
ナイロンは戦後の商品で、当時は絹が繊維として一番強かったのです。
食事は、芋のつるやひじきに、お米が少し混じっているご飯と、具のない味噌汁でした。
時には乾パン1袋だけの時もありました。
みんなお腹が空いて水をガブガブ飲み、青い顔をして、むくんで栄養失調でした。
ハダカ電球の下で、厳しい立ち仕事で疲労困憊です。
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クラス50名の生徒に1名の先生がつき、朝礼で日本軍の成果だけを聞かされました。
新聞もラジオもないので、劣勢は知らされず・・・
私達は腹ペコで、戦争どころでは無く、考える力も無く、ただただ生きていました。
大東亜戦争(太平洋戦争) 聖戦(侵略戦争) 玉砕(全滅)
神風(台風) 鬼畜米英〔強国米英) 何もかもの言葉ががウソでした。
女学生(14歳~16歳)の私達が造る兵器に頼らねばならない国が
勝てるわけありません。
戦争は、勝っても負けても人が死にます。
平和は、95歳老女の唯一つの願いです。
昭和時代の回想
▼物心がついたのは、3~4歳くらいで、昭和21年 ~22年ころであった。
その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では
福岡県朝倉郡筑前町あたりであった。
筑前町には母方の先祖の家があり、そこへ身を寄せていた。
▼祖父と父親は、戦前は福岡の中心的繁華街の東中州人形町に店舗を構えていた。
今日で云う生菓子の製造・直売で、それなりに成功していたらしい。
当初は福岡県飯塚市で事業を開始し、それなりに成功し、
祖父は星雲の志を抱いて東京進出を考えたらしい。
▼ところが東京の地価が想像を超える価格だったので諦め、
九州一の繁華街の東中州で開業したという話を、母から聞いたことがある。
▼やがて福岡市街も空襲があり、焼け出されて
母方の実家があった福岡県朝倉郡筑前町へ一時的に身を寄せていた。
そして今日で云う農協のようなところから依頼され、一時的に大きな精米所を任されていた。
▼この精米所の前が、子供目線では先が見通せないほど広大な広場で、
所々に大きな穴が開いていた。
これが、かつて東洋一と云われた「陸軍大刀洗飛行場」であった。
▼この飛行場から「海軍鹿児島基地」の鹿屋空港へ戦闘機が飛び立ち、
やがては南海の空へ特攻機として散っていったという歴史があります。
▼私の叔父たちは、士官学校卒の軍人だったため、終戦直前に南方方面に派遣され、
あえなく戦没者の仲間入りしている。
昨日、2023年8月16日、京都五山送り火が無事行われました。
テレビの生中継で五山送り火を観ていて思い出したことを、誰にも言わずに忘れてしまう前に昭和の部屋に書かせていただくことにいたします。
父は明治40年京都生まれ、京都育ち。祖父は明治10年京都生まれ、京都育ち。
もう、60年ほど前のことです、
『あんたのおじいちゃんから、長岡の山(現 長岡京市)に「竹に鈴」という送り火が点ったのを若い頃、観たことがある。観たことはないけど「妙法」より北の山に「イ」とか「ニ」とかもあったらしいと聞いたことがある。
昔は、もっとたくさんの山で送り火が灯ってたらしいなぁ』
こんな話、父から聞いただけで、書物で確認したわけでも、報道されていたわけでもありません。これが本当に正しいのかわからないのですが、まんざら嘘ではないと思います。もし、詳しくご存知の方あればご教示の程お願いします。
有る画期的な事業がまもなくはじまります。始まったら私は、真赤なスポーツカーに枯葉マ−クを2つ付けて日本一周をやろうと計画しています。
自分が作った温泉施設と温泉歩行プ−ルで体を鍛えています。
- Joyful Note -