風呂事情 白兎山人
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投稿日時 2011/2/8 9:14
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・返信)は、メロウ倶楽部の公開サイト「大正の部屋」への投稿(2008/02/13)を、投稿者またはご家族(含・返信者)のご承諾を得て転載するものです。
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街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。
一里くらい離れた山から柴などを刈って来ていたようです
長州風呂なぞと言うものが広まったのはずっとあとだったような気がします
敗戦後しばらく その父の生家の屋敷内のあばら家に家族5人で身を寄せていましたが生家の家族7人くらい入ったあとの五右衛門風呂は湯がトロンとしていました。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
引用:
街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
就職して勤務支店に行ったら合宿所に入れさせられました。
当然其処には風呂場が有りました。
銭湯と云うものに行った事が無かったので当初怖かった思い出が。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
引用:
銭湯と云うものに行った事が無かったので当初怖かった思い出が。
温泉場育ちの子供は、毎朝起きると服を抱えて温泉風呂場へ駆け込み、温泉に浸かってから着替えていました。
昭和7年、長野の中学へ入り、郷里を離れて、女学校へ行っていた姉と一緒に下宿しました。その家には勿論風呂はなく、銭湯へ行かねばならなかったのですが、それまでは家の温泉にしか入ったことのないので、銭湯が怖くてどうしても行けませんでした。やむなく姉が見かねてその家の台所の一隅を借りて大きな盥をおいて行水させてくれました。
慣れるに従い銭湯が好きになりましたが、当時は石鹸が高価品で、先ず「垢すり」という20cm四方くらいの布を持っていき、先ずそれで身体中を擦って垢を落とし、その後で石鹸を手拭いに軽く着けて身体を洗いました。
昭和26年、やっと我が家を建築したとき、最も嬉しかったのは我が家に風呂を作ったことでした。井戸水を薪で湧かしましたが、近所の人も喜んで入りに来ました。
編集者
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投稿数: 4298
不虻さん
引用:
昭和26年、やっと我が家を建築したとき、最も嬉しかったのは我が家に風呂を作ったことでした。 井戸水を薪で湧かしましたが、近所の人も喜んで入りに来ました。
温泉旅館の御曹子が銭湯怖いとは想外ですね。 私の場合は結婚して先輩に借家を譲って貰った昭和十七年から、台所裏より拾数歩の銭湯通いが始まった次第です。
神戸六甲道駅東方の踏み切りを渡った柳と言う処の戸建長屋でした。
応召して内蒙古の兵営では、新兵さん入湯は一番最後、温かい泥の海でした。
暗号兵は四度の討伐行に全部従軍、一回半月程は当然お風呂どころではない。
凱旋して静岡に着いたら、焼野原の予想に反し郊外の田圃の中の二階長屋に借家が待ってました。 先ずは風呂と入らされたのが懐かしのドラム缶風呂。注意されたが出たら背中にタールが。
名古屋転勤、合宿所入り直後に県営住宅に申込んだら見事当選し、御器所に建った二階四戸建て数棟の団地?から又銭湯通いが。
所がトイレは水洗、一案して乙仲にドラム半裁を頼んだら即入手、台所の瓦斯湯沸器からゴム管を伸ばして良い湯だなが続きました。
後日談は何れ又。 ところで石鹸、シャボンって言ってませんでした?
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
白兎山人さん、変蝠林さん、皆さん…。
引用:
北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。長州風呂なぞと言うものが広まったのはずっとあとだったような気がします
瀬里恵の実家は瀬里恵の生まれる前から(昭和4年生れ)ずーっと長州風呂でした。
構造から考えると五右衛門風呂が後から出来たのではないかと推測するのですが…。最も長州風呂も五右衛門風呂と呼ばれているようですネ…。
でも、石川五右衛門が釜茹でされた処から五右衛門風呂と呼ばれたと言う事から考えると歴史は相当古い…。
子供の頃 兄と2人で五メートルほど離れた吸上ポンプからバケツで水を運んで風呂釜に水を張った思い出があります。 後にヒノキ風呂に変わりましたが、矢張り思い出は懐かしい…。無論 戦前のお話です。
編集者
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投稿数: 4298
「長州風呂」は私の記憶違いで敗戦後まもなく出回った長府製作所の木製風呂桶(小判型)とそれ用の 外付け釜(薪)のことを言いたかったわけです
関東まで広がったかどうかは私は知りません
昭和30年代には 父がドラム缶で風呂をつくり裏山で松葉を炭俵に詰めては持ち帰り燃料にしていました
編集者
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投稿数: 4298
調べて見ると 私の言わんとした風呂は鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです
なお 浴槽全体が鋳鉄製のものを長州風呂周囲が木製で底だけ鉄製のものを五右衛門風呂と言うのが正しいのだとか
編集者
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投稿数: 4298
白兎山人さん、みなさん こんばんは
引用:
調べて見ると 私の言わんとした風呂は鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの
鉄砲風呂で思い出しました。 楕円形の木桶でした。
釜はおけの内側に付いていましたよ。 また別の名前の風呂かな?
内側に釜があるため火傷しないように板の仕切りが付いていました。
燃料は石炭を焚いていました。 石炭に火が燃え移るまでが大仕事で、新聞紙から始めて細く割った蒲鉾の板などに火を移し、良い頃を見計らって石炭を入れますが、失敗すると始めからやり直しです。
冬の寒い時に野外の焚き口で震えながら焚いたものです。 追い炊きは板切れだけで済ませましたが、市内では入手が面倒で、ミカン箱やリンゴ箱を大切に残しました。
編集者
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投稿数: 4298
Panさん、みなさん こんにちは
引用:
調べて見ると 私の言わんとした風呂は鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです 木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの
これと同じようだったと思います
釜に触ると熱いので、注意して浸かりました
親が共働きだったので、風呂焚きもよくしました
これ以前、家に風呂がないときは、銭湯へ行きましたが、いつ行っても多くの人で込んでいました
当時は(終戦前後)まだ、内風呂のある家は、少なかったのでしょうね
銭湯といえば、時々、背中一面に刺青をした人を見ましたが、子供心に怖かったですね
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
風呂に関する思い出二つ。
その一、昭和35年頃、勤務上広島に住んでいたことがありましたが、借りていた旧家の風呂が五右衛門風呂でした。薄暗い電灯の下で、こわごわ浮いている板を踏み外さないように注意しながら入りました。
その二、昭和30年頃、仙台に住んだ時のことです。当時仙台は直ぐ近くで亜炭が採掘されたので、色々な燃料に亜炭が使用されていました。それで町中が甘酸っぱい様な亜炭の臭いで一杯でした。
当然、風呂も亜炭で湧かしましたが、亜炭は火力が弱いので、朝から沸かし出してやっと夕方入れるようになったと記憶しています。
最近では、「亜炭って何?」と言う人も増えてきましたね。