上海の市街地図
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投稿日時 2004/6/12 22:33
多摩のけん
投稿数: 3
上海中心部1
上海の中心部の拡大図です。
当時、上海はアジアでありながらヨーロッパの大都会の様相を呈していたと言われ、この頃が上海が一番華やかな頃ではなかったかと思います。
やや右下の赤いマークをつけたところが、当時の上海の顔「ブロードウェイ・マンション」で24階建てでした。現在の「上海大廈」《シャンハイダーシャー》です。
この一帯には領事館などの各国政府の出先機関や大企業の支店が密集していました。黄色く塗った「パブリック・ガーデン」のトイメン《対面》に「日本領事館」「米国領事館」「独逸《ドイツ》領事館」「露国《ろこく=ロシア》領事館」が並んでいますね。
その近くにある埠頭《ふとう》には戦艦(巡洋艦?)「出雲」が停泊していました。たしか3本煙突だったと思います。
地図上方の「中部小學校」は後の「第四小學校」で、父が勤務していました。
「第一」が教員などの子供が多いのに対し、「第四」は商社や銀行員など、ハイクラスの家庭の子供が多かったことを、東京に住むようになって「上海の同窓会」に出席して知りました。この地図を見てみると納得できます。
「北停車場」と言っていた上海駅は左上にありますが、不便なところでした。
「ブロードウェイ・マンション」の前には「ガーデンブリッジ」があり、その橋の向こう側は、当時「フランス租界」《そかい》」とか「川むこう」呼ばれていた上海随一の繁華街でした。
橋を渡ったすぐのところが「パブリック・ガーデン」で河畔公園でしたが、そこから川に沿った一帯はバンドと言われた一角で、上海の都市美を代表する華麗《かれい》なビル並ぶ地帯でした。
良く見ると、「英国領事館」などの名前も見えますが、日本関係を探すと「三井洋行」「住友」「日本郵船」「正金銀行」「東亜海運大阪」などの名前が見えます。このあたりが、上海の「一等地」です。
上海中心部2
上海中心部1より更に繁華街に入ったところです。
「バンド」から直角に西に伸びたストリートが「南京《なんきん》路(緑色)」で、デパートや高級専門店、レストランなどが並んでいました。(当時、子供だったので専門店のことはよくわかりませんが、)
今考えてみると「高級クラブ」と思うのですが、中央の大きなホールで社交ダンスをしているのを見ながら「西洋料理」を食べた記憶があります。
イルミネーションがキラキラした明るい広いところで男女が抱き合って踊っているので、子供心にびっくりしたことを覚えています。堅い父が何故そのようなところに家族連れで行ったのか、未だにわかりませんが、その印象は強烈で、それがなかったら、「上海はアジアの中のヨーロッパ」を実感できなかったと思います。
惜しむらくは、あと10年「歳とっていたら...」と思います。何分にも10歳では知らないことばかりです。
上海の市街地図(北部)
昭和15年発行の上海市街地図の拡大図です。
西寄りにある鉄道沿いのほぼ中央に「A」と書き込んであるところ(上海北四川路潤徳坊14号)で私は生まれました。隣は陸戦隊本部(大日本帝国海軍上海特別陸戦隊)でした。
線路の沿って北にある「虹口(ほんきゅう)公園」は「新公園」とも言われ、よく遊びに行きました。子供の足で家から10分くらいでした。現在は魯迅《ろじん=中国の文学者》記念館があり、上海を訪れた人は必ず寄ります。
鉄道を挟んだようにしてある「六三園(ろくさんえん)」にも良く行きました。
森に囲まれた静寂な庭園だったと思います。父と兄弟3人で「どこまで行っても長い道、ゴーンとお寺の鐘が鳴る」とか「あの町この町日が暮れる」とか
童謡を歌いながら手をつないで帰った思い出があります。父は特に童謡が好きでした。何故父との思い出があって母が出てこないのか考えてみたら、この頃、弟が昭和18年2月に生まれていますので、3人の子供の世話は教師をしていた父の役目だったのですね。
地図の中央下にある「北部第一小學校」が、後の「上海第一日本國民學校」で私が行っていた学校です。「新公園」「自宅」「第一國民學校」の3つを結ぶ「線」が私の生活範囲でした。
当時は知りませんでしたが、今、よく見ると「第二小學校」や「高等女學校」「女子商業學校」など、学校が集まっていますね。
多摩のけん/高瀬