私の昭和20年8月15日 (1)
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私の昭和20年8月15日 (1) (マーチャン, 2004/6/19 20:32)
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投稿日時 2004/6/19 20:32
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
終戦の年の4月、学童疎開で、信州にいた私のもとに他の家族とともに東京で頑張っていた父からハガキが来ました。
そこには---
勤め先の本社機構そのものが、各地の鉱山(父の勤め先は鉱業会社)や支店などに疎開することになった。東京の家族もすべて兵庫県の分水嶺《ぶんすいれい》にある、鉱山町に引っ越す。
お前も疎開先に迎えに行き、そちらへ連れて行く---というものでした。
戦争末期、日本中どこも大変な時代でしたが、思いがけず久しぶりに両親と暮らせるのは嬉しかった。
というわけで、その夏は、兵庫県におりました。
さて、その日は、夏休みの最中。しかも、旧盆《=旧暦のうら盆》。
そこで、同じ兵庫県北部の母方の伯父《おじ》の家に、一人で泊りがけで出かけていました。
(私は、10才のときから、一人で列車を乗り継いで泊りがけで旅行する習慣がついていますので海外一人旅についても、まったく違和感がありません)
お盆ということで親戚《しんせき》の人も何人か来ていました。
その日、山陰線の江原駅(現在の「日高駅」)に張り紙がありました。
「本日、正午に重大放送があるから必ず聞くように」という意味のことが書いてありました。
伯父にそのことを話しました。
伯父は「いよいよ、日本は戦争に負けたんだ」といいます。
伯母がびっくりして「あんた、そんなことを言うと憲兵《けんぺい=軍事警察の権限を持つ兵》に引っ張られますよ」といいました。
いよいよ、放送が始まりました。
天皇陛下のお声らしいということでした。
甲高い、泣いているような、搾《しぼ》り出すようなお声でした。
内容は、ほとんど分かりませんが、少なくとも、景気のいい話でないことは、10才のこどもにも分かりました。
玉音(というそうです)が終わると、アナウンサーが至って事務的な声で「ポツダム宣言」というのを読み上げました。
「これ、何ですか」と私は、伯父に聞きました。
伯父は「これはな、捕虜などをアンジョウ(方言で、ちゃんと問題なくの意)返せということだ」と教えてくれました。
ついでに「無条件降伏」の意味も聞きました。
「もう、何でも、あなたさんの言うとおりにしますさかい、どうぞ、こらえて下さい」ということだと説明してくれました。
草深い農村で、村長を務めたことがあるというものの、旧制中学を卒業しただけの伯父が、どうしてこれだけの情報を持っていたのか、今でも不思議です。
ただ、亡くなったあと、倉のなかから「文芸春秋」「中央公論」「週刊朝日」など大量の雑誌が出てきました。
そういうものから世界情勢を読み取っていたのでしょうか。
そこには---
勤め先の本社機構そのものが、各地の鉱山(父の勤め先は鉱業会社)や支店などに疎開することになった。東京の家族もすべて兵庫県の分水嶺《ぶんすいれい》にある、鉱山町に引っ越す。
お前も疎開先に迎えに行き、そちらへ連れて行く---というものでした。
戦争末期、日本中どこも大変な時代でしたが、思いがけず久しぶりに両親と暮らせるのは嬉しかった。
というわけで、その夏は、兵庫県におりました。
さて、その日は、夏休みの最中。しかも、旧盆《=旧暦のうら盆》。
そこで、同じ兵庫県北部の母方の伯父《おじ》の家に、一人で泊りがけで出かけていました。
(私は、10才のときから、一人で列車を乗り継いで泊りがけで旅行する習慣がついていますので海外一人旅についても、まったく違和感がありません)
お盆ということで親戚《しんせき》の人も何人か来ていました。
その日、山陰線の江原駅(現在の「日高駅」)に張り紙がありました。
「本日、正午に重大放送があるから必ず聞くように」という意味のことが書いてありました。
伯父にそのことを話しました。
伯父は「いよいよ、日本は戦争に負けたんだ」といいます。
伯母がびっくりして「あんた、そんなことを言うと憲兵《けんぺい=軍事警察の権限を持つ兵》に引っ張られますよ」といいました。
いよいよ、放送が始まりました。
天皇陛下のお声らしいということでした。
甲高い、泣いているような、搾《しぼ》り出すようなお声でした。
内容は、ほとんど分かりませんが、少なくとも、景気のいい話でないことは、10才のこどもにも分かりました。
玉音(というそうです)が終わると、アナウンサーが至って事務的な声で「ポツダム宣言」というのを読み上げました。
「これ、何ですか」と私は、伯父に聞きました。
伯父は「これはな、捕虜などをアンジョウ(方言で、ちゃんと問題なくの意)返せということだ」と教えてくれました。
ついでに「無条件降伏」の意味も聞きました。
「もう、何でも、あなたさんの言うとおりにしますさかい、どうぞ、こらえて下さい」ということだと説明してくれました。
草深い農村で、村長を務めたことがあるというものの、旧制中学を卒業しただけの伯父が、どうしてこれだけの情報を持っていたのか、今でも不思議です。
ただ、亡くなったあと、倉のなかから「文芸春秋」「中央公論」「週刊朝日」など大量の雑誌が出てきました。
そういうものから世界情勢を読み取っていたのでしょうか。