レンパン島捕虜収容所 第二部 <英訳あり>
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レンパン島捕虜収容所 第二部 <英訳あり> (てっちゃん, 2004/9/3 21:19)
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Re: レンパン島捕虜収容所 第二部 (toshy, 2004/9/29 0:21)
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Re: レンパン島捕虜収容所 第二部 (toshy, 2004/9/29 0:21)
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投稿日時 2004/9/3 21:19
てっちゃん
投稿数: 6
レンパン島 静村 《しずかむら》弘法山《こうぼうさん》宿営地我々滝本隊は宝港の近くで野営《やえい=野外で寝ること》、翌朝驟雨《しゅうう=にわか雨》の中を出発、潅木や湿地の細い道を伐採し行軍して、宿営地の静村弘法山に辿《たど》り着いた。
小高い丘でマングロープの海が見えた。距離にして10キロ足らずであろうか。
此処《ここ》が仮の住まいか、終の棲家《ついのすみか=死ぬまで住む家》か、赤茶けた土地、ジャングル、ゴム林、マングロープ、固い雑草、羊歯《しだ》、・・・・・食えそうなものは何もない。
開墾開拓《かいこんかいたく=山野などの荒地を農地に作り変える》滝本隊は宮崎、大分生まれが中心で敗戦から帰国復員《ふくいん=兵士が帰郷すること》まで帝国《=敗戦までは大日本帝国と言った》陸軍の軍紀《ぐんき=軍隊の規律》を維持した精鋭《せいえい=えり抜きの強い兵》で、農夫、漁師、猟師、大工、魚屋・・・など多士済々《たしさいさい=優れた人が多くいる》であった。
現地自活を覚悟した各種の準備も英軍の眼を盗みながら行われていた。
野菜の種子、雑草の種子、若干のノコギリ、斧《おの》、小刀、などなどを携行した。
到着後すぐ伐採、農耕、漁労、建築、製塩、などの班を編成した。仮の宿舎の建設は、極めて迅速で見事であった。伐採し整地し萱《かや》に似たものを集め、材木を釘の代わりに蔓《つる》で止め、天幕》と併用して作り、便所も併設した。
最大の課題は食糧の確保であった。
レンパンへ移動する際、英軍許可の携行食糧は4日分、軍足(靴下)に詰め込んだ米の他、乾パン、副食少々であった。
レンパンでは英軍の1日の補給は僅かに280グラムの米、それも輸送途中に目減り《こぼれたり乾燥したりで自然に減る》して220グラム前後、副食は殆ど《ほとんど》ない。熱量計算では500カロリ程度であった。
島に棲む《すむ=住む》食べられるものは総て捕った。ワニ、トカゲ、蛇、さそり、むかで、ネズミ、魚、貝、海草、木の若芽、野草・・・毎日が「飢え」との壮絶な戦いであった。
ある日当番兵がマングロープの小川で子鰐《こわに》を捕ってきた。貴重な蛋白源である。羊歯と木の若芽と数えるほどの米との雑炊にぶち込んで食った。食った。食った。
腹がふくれると人間は穏やかになる。久し振りに笑い声が聞こえた。
農耕で一番の痛々しい思い出は、肥料となる人糞の奪い合いであった。
主食となるタピオカの成長には人糞が一番であった。各自が携帯したタピオカの茎を雑木を切り開いた土地に植え付けすると一週間で芽が出る、太らすには人糞がよい。栄養失調《えいようしっちょう=食物の不足により起こる病気》の身は便秘する、時間をかけてもなかなか出ない。排出量が少ない、タピオカを早く育てたいため、糞の奪い合いが起こったのである。
レンパン浮腫《ふしゅ=むくみ》(栄養失調)
殆どみんな「レンパン浮腫」に罹《かか》った。
顔はむくみ、ふくらはぎは指で押すと凹んだままでもどらない、骨と皮、飢餓《きが》による栄養失調である。
目減りした英軍の配給220グラムの献立は、朝は米70グラムの粥、昼は60グラムの重湯《おもゆ》、夜は90グラムの飯に、その日その日の収穫の羊歯や若芽、トカゲ、さそり、むかで、等を加えたもので、精精《せいぜい》1000カロリ前後であ
った。
毎日食うための重労働と静部隊本部からの宝港や道路建設の使役《しえき》で、体力維持の為には3000カロリ以上必要であるが、その1/3 で飢えに苦しんだ。
目は落ち窪《くぼ》み、ものを言うのも面倒くさい、笑い声もなくなった。
少しでも体力の消耗を防ぐために、自由時間にはみんな寝転んだ。
杖は必需品であった。一度転ぶとなかなか起き上がれなかった。
この世で「飢え」ほど恐ろしいものはない。飯に恋する恋飯島であった。
マラリア
食糧不足と重労働で体力が消耗するとマラリヤが発病する。多くの戦友が再発した。
40度を越える高熱が出る。苦しくて無意識にうわ言が出る。「ぼた餅が食いたい、すき焼きが食いたい、めし! めし!めし!」と食い物のうわ言ばかりであった。
小寺昌良機関銃小隊長は違った。聞きなれない聖書の祈りの言葉や賛美歌ばかりであった。宗教に門外漢《もんがいかん=専門家でない人》の我々に分かったのはは・・・・・アーメン」だけであったが、みんな深く感動した。
マラリアは死亡率が最大であった。この他にアメーバ赤痢《せきり》、腸炎、熱帯潰瘍、下痢、などがあった。
レーション(英軍口糧《こうりょう=兵士一人分の食糧》)
11月20日頃海の彼方に大きな貨物船が望見された。数日すると英軍からの補給として大量の携帯口糧《=携帯用食糧》を積んだ貨物船でリシュリー号ということが伝えられた。滝本隊にも宝港へ作業隊出動の命令がきた。
師団《しだん=部隊》参謀《さんぼう=高級将校》の手記によると、先発の揚陸隊が疲労と飢餓による暴動のため撤退し、軍紀厳正なる《=軍の規律が厳しい》静兵団に対し、宝港へ作業隊派遣《はけん》が下令《かれい=命令を下す》されたとのことである。
12月8日極度の疲労と空腹の中にあった我々に待望》の英軍口糧が支給され、1箱1日分を3日で食うように指示された。この他に毎日米が6オンス支給されることになった。
1箱の中身は米軍のレーションであったが、朝食、昼食、夕食に分けられ、その豪華さに吃驚仰天《びっくりぎょうてん》した。ビスケット、肉缶、鮭缶、チーズ、砂糖、チョコ、タバコ、粉末スープ、菓子、チュウインガムなど、多彩で豊かであった。
この時から体力も段々に回復し始め、畑の野菜も1部食えるようになっていささか人間らしくなった。
昭和21年正月
レンパン島での初めての正月、この日のために毎日少しづつ蓄え《たくわえ》た米、澱粉、砂糖、味噌などで正月料理らしきものを作った。最大のご馳走である。中隊の前には、大きな泥餅を三つ重ね、両脇にマングロープの木を門松《かどまつ=正月用の飾り松》代わりに立てて祖国を偲《しの》び正月を祝い、小寺中尉の音頭で「年の始め」を合唱した。
そして恒例《こうれい=仕きたり》の「出陣の賦《ふ》」を合唱した。
「出陣の賦」 滝本隊長作詞、小寺中尉作曲
あしたに仰》ぐ高千穂や 夕べに拝す神柱
日豊健児出で征《ゆ》けと
神命我等に今下る。神命我等に今下る。
さらば祖国よ故郷よ
愛《いと》しき友よ同胞《はらから》よ
相見ん時は靖国《やすくに=靖国神社》の
桜爛漫《らんまん》の花の下 桜爛漫の花の下
見よ殉忠《じゅんちゅう》の尖兵《せんぺい》が
義剣かざして征くところ
吾に仇《あだ》なす敵やある
堂々常勝吾が中隊 堂々常勝吾が中隊
死するは易く生難》し
おお諸々《もろもろ》の強者よ
行く道は只《ただ》一つ
貫かん哉《かな》誠道
貫かん哉誠道 以下省略
第二部 おわり