若き飢えてるの悩み(母への手紙)
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- 若き飢えてるの悩み(母への手紙) (さんらく亭, 2004/11/14 21:04)
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投稿日時 2004/11/14 21:04
さんらく亭
居住地: 甲子園
投稿数: 11
昭和18年(=1943年)秋、5年生《=国民学校》のとき神戸も空襲で危険になり学童疎開《がくどうそかい=子供を集団または個人で田舎へ移す》が始まりました。田舎に親戚《しんせき》がある子は縁故疎開《えんこそかい》でそういう縁のない子は集団疎開です。私は父の故郷である兵庫県宍粟郡《しそうぐん》山崎町という山奥の小さな町に母・弟・妹との4人で疎開し、古い醤油問屋さんの家作の空いていた離れの部屋を別の5人家族と一枚の板で仕切った窮屈《きゅうくつ》な一間での生活が始まりました。このときの食糧難のことは忘れることができません。このことはいづれまた思い出しながら書いてみたいと思います
昭和20年4月兵庫県立龍野中学校に入学。山崎の自宅からは距離にして4里(16km)あり自宅通勤は無理で構内にある寄宿舎に入寮です。当時は中学校は5年制でしたが3年生以上は勤労奉仕で姫路あたりの軍需工場へ動員されており学校内で姿を見たことがありませんでした。寄宿舎には2年生が10人ほどと新入生が7~8人だったように記憶します。1年違っても上級生は神様みたいな怖い存在で敬語敬礼が当然でよく殴られましたがそのことにはあまり抵抗はなかった。とにかく何がつらいといって空腹ほどつらいことはなかったです。
寮生は自宅通勤ができない遠隔地出身者ですが殆ど《ほとんど》は農家や林業の家庭で比較的余裕のある家の子で私のような疎開モンは例外でした。入寮にあたっての費用のことは私には親からも知らされてなく(聞いても理解できなかったかも)分かりませんが、農家の子などは親が白米をときどき何升《=一升は約1、8リットル》かづつ寮母のところへ持って来ていたようです。疎開もんにはそんな手段もなく出されるものを腹に入れるだけでした。それが毎度、コメは僅《わず》かで麦ならいいほうで大豆や雑穀《ざっこく=あわ、ひえなど》が8にコメが2といった割合でした。農家の子は内緒で親が差し入れた白米で握り飯を作ってもらっていました。もちろん寮母はそのナンボかを自分用にピンハネしてたようです(のちに退寮してから噂《うわさ》で聞いた話です)
最近母(97才)のものを整理していたらその頃(昭和20年《=1945年》8月3日)に私が母あてに出した手紙が出てきました。大事に保管していたそうです。こんなことを書いたのを私自身忘れていました。内容は恥ずかしい限りですが当時の中学生の生活の一つの事例としてご参考になればと、原文のまま全文をご披露いたします。
文中、「小母《おば》はん」は寮母。「大西先生」は自宅近所の医者。「おかい」は粥《かゆ》のこと。
<以下転載> 原文は旧漢字ですが変換しないので当用漢字で書きます
*********************************************************
お元気ですか。いよいよ明日から学期末考査《こうさ=試験》が始まります。毎日勉強して居ますから御安心下さい。
日一日と食糧が欠乏して参り、家でも困ってゐるでせう《いるでしょう》。僕はこの間から豆八割米二割の飯を食ふせゐ《食うせい》かひどい下痢をしてゐ《い》ます。いくらかんでもこなれないので半分位に控へ《え》てゐ《い》ると作業等があった時に腹ぺこぺこで弱ります。小母はんにおかいを炊《た》いてくれといっても、なんじゃらかんじゃら言って炊いてくれず、真に困ってを《お》ります。ビオフェルミンや大西先生の下痢の薬など欠かさず服用してゐ《い》ますがどうにもこうにもなりません。どうしたらよいものか心配です。今迄《まで》は三度御飯でおかいでもしてくれと言へ《え》ばしてくれて大変よかったのですが今は晩はさうめん《そうめん》、朝昼は豆がほとんどのごつごつ飯で食へ《え》ば下痢食は《わ》ねば空腹です。
ほんとうはこんな不平を言ってはいけないのですが仕方がありません。何かよい方法はないものでせう《しょう》か。
五日と十二日の日曜は授業のため帰れません。腹がへりますから何かこなれのよい間食をことづけて下さいお願ひ《い》します。
先の日曜に手拭《てぬぐい=約90センチの木綿の布》を家に忘れて居ましたのでその時にことづけて下さい
さや《よ》うなら
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手紙は縦罫《たてけい》のノートの裏表に23行。封筒は数学の問題用紙の裏面を廃物利用して自分で作ったものです。 さんらく亭(杉本孝昭)1932.11.25~
昭和20年4月兵庫県立龍野中学校に入学。山崎の自宅からは距離にして4里(16km)あり自宅通勤は無理で構内にある寄宿舎に入寮です。当時は中学校は5年制でしたが3年生以上は勤労奉仕で姫路あたりの軍需工場へ動員されており学校内で姿を見たことがありませんでした。寄宿舎には2年生が10人ほどと新入生が7~8人だったように記憶します。1年違っても上級生は神様みたいな怖い存在で敬語敬礼が当然でよく殴られましたがそのことにはあまり抵抗はなかった。とにかく何がつらいといって空腹ほどつらいことはなかったです。
寮生は自宅通勤ができない遠隔地出身者ですが殆ど《ほとんど》は農家や林業の家庭で比較的余裕のある家の子で私のような疎開モンは例外でした。入寮にあたっての費用のことは私には親からも知らされてなく(聞いても理解できなかったかも)分かりませんが、農家の子などは親が白米をときどき何升《=一升は約1、8リットル》かづつ寮母のところへ持って来ていたようです。疎開もんにはそんな手段もなく出されるものを腹に入れるだけでした。それが毎度、コメは僅《わず》かで麦ならいいほうで大豆や雑穀《ざっこく=あわ、ひえなど》が8にコメが2といった割合でした。農家の子は内緒で親が差し入れた白米で握り飯を作ってもらっていました。もちろん寮母はそのナンボかを自分用にピンハネしてたようです(のちに退寮してから噂《うわさ》で聞いた話です)
最近母(97才)のものを整理していたらその頃(昭和20年《=1945年》8月3日)に私が母あてに出した手紙が出てきました。大事に保管していたそうです。こんなことを書いたのを私自身忘れていました。内容は恥ずかしい限りですが当時の中学生の生活の一つの事例としてご参考になればと、原文のまま全文をご披露いたします。
文中、「小母《おば》はん」は寮母。「大西先生」は自宅近所の医者。「おかい」は粥《かゆ》のこと。
<以下転載> 原文は旧漢字ですが変換しないので当用漢字で書きます
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お元気ですか。いよいよ明日から学期末考査《こうさ=試験》が始まります。毎日勉強して居ますから御安心下さい。
日一日と食糧が欠乏して参り、家でも困ってゐるでせう《いるでしょう》。僕はこの間から豆八割米二割の飯を食ふせゐ《食うせい》かひどい下痢をしてゐ《い》ます。いくらかんでもこなれないので半分位に控へ《え》てゐ《い》ると作業等があった時に腹ぺこぺこで弱ります。小母はんにおかいを炊《た》いてくれといっても、なんじゃらかんじゃら言って炊いてくれず、真に困ってを《お》ります。ビオフェルミンや大西先生の下痢の薬など欠かさず服用してゐ《い》ますがどうにもこうにもなりません。どうしたらよいものか心配です。今迄《まで》は三度御飯でおかいでもしてくれと言へ《え》ばしてくれて大変よかったのですが今は晩はさうめん《そうめん》、朝昼は豆がほとんどのごつごつ飯で食へ《え》ば下痢食は《わ》ねば空腹です。
ほんとうはこんな不平を言ってはいけないのですが仕方がありません。何かよい方法はないものでせう《しょう》か。
五日と十二日の日曜は授業のため帰れません。腹がへりますから何かこなれのよい間食をことづけて下さいお願ひ《い》します。
先の日曜に手拭《てぬぐい=約90センチの木綿の布》を家に忘れて居ましたのでその時にことづけて下さい
さや《よ》うなら
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手紙は縦罫《たてけい》のノートの裏表に23行。封筒は数学の問題用紙の裏面を廃物利用して自分で作ったものです。 さんらく亭(杉本孝昭)1932.11.25~