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温泉宿の年中行事の幾つか <英訳あり>

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  • 通常 温泉宿の年中行事の幾つか <英訳あり> (不虻, 2005/3/28 11:30)

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不虻

通常 温泉宿の年中行事の幾つか <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/3/28 11:30
不虻  新米   投稿数: 20

さきに我が家の年中行事の一つとして、「味噌作り」を御紹介しましたが、宿屋として毎年決まってやらなければならないこと
は、他にも幾つかありました。今回はそれをお話ししたいと思います。

【雪室(ゆきむろ)への雪詰め】 

草津温泉は、標高1200㍍の高原にあり、真夏でも最高気温は25℃位という絶好の避暑地でした。その上、水は山からの冷
たい清水を垂れ流しで使っていましたから、サイダーやビール、西瓜、桃或いは心太(トコロテン)などは台所の水槽に入れて
おば、何時でも冷えた物が飲食出来、一般には別に冷蔵庫など必要ありませんでした。

 しかし旅館の厨房《ちゅうぼう=調理場》では、魚肉類の貯蔵などに冷蔵庫が必要だったのでしょう。調理場の後ろに大きな
氷冷蔵庫が置いてありました。

 我が家ではその為に、温泉場の郊外……と言っても歩いて10分もかからない処《ところ》ですが……そこの斜面に洞窟《ど
うくつ》
を掘って、雪室を作っていました。狭い小さな入り口から2,3段下りると中は3坪《=約10平方メートル》ほどの洞窟で
す。粉雪では詰めようもありませんから、3,4月になって、雪が水分を含むようになった頃を見計らって、番頭《ばんとう》
が、周囲の雪を室に詰める作業を行いまた。

 夏になって厨房から「雪が無くなってきたよ。」と声がかかると、手の空いている番頭がリヤカー《自転車に付ける荷物用二
輪車》
(*)を曳《ひ》いて雪室へ行き、必要な雪の塊《かたまり》を古い毛布に包んで持って来ました。これは私も何回か手伝
ったことがありました。

(注)リヤカーは大正10年頃日本に渡来したと言います。

 【年賀状の切手貼り】

毎年末、帳場番頭《ちょうばばんとう》(筆頭番頭のことで、今なら支配人、総務部長、経理部長などを兼ねた様な人。私達は
何々さんと名前を呼んでいましたが、他の番頭、女中からは『お帳場さん』と呼ばれていました)が、旅館から顧客に出す年賀
状何百枚かに筆で宛名書きをします。
 書き終わったハガキに切手を貼るのは、大体私達子供の仕事でした。私達は「面倒臭い《めんどくさい》から郵便局で判を押
して貰ったら」と言うのですが、「それではお客様に失礼に当たる」と、聴《き》いて貰えませんでした。

 【畳替えと障子張り】

 畳替えと障子《しょうじ》張りも欠かせぬ作業でした。それについては、明治45年、東京の病院に入院していた祖父が、家を
守っていた祖母に宛《あ》てた手紙の一部を御紹介しましょう。

『………障子張り替えなども漸次《ぜんじ=だんだん》見苦しき所より初め候様《そうろうよう》 畳替えは表《畳表》の着き次第
 五八、六三、六二、三階二二、二三などは新しき物を用ふべし また二〇、二一などは六二、二三などの裏返し物《=畳は
表が汚れると裏返して使った》
で宜《よろ》しく 二五、二六はまだ我慢頃と心得、もし見苦しかば是《これ》も新しきを用ふべし、
云々《うんぬん=文章の後を省略する時に使う》
  (ここでの数字は客室の番号です)

 といった調子でした。病気中なのに、こんなに細かいことまで指示するなんて、驚きましたが、兎も角《ともかく》、祖父の商売
熱心には頭が下がりました。
 これらの仕事は、町内に住む出入りの畳屋や経師屋《襖・障子、軸物などに布や紙を貼る職人》がやっていました。

【布団の綿の入れ替え】

何月頃のことか覚えていないのですが、毎年高崎から「グンジさん」という人が来て、何日か泊まりがけで布団の綿入れの作
業をしていました。

 小学校から帰り、家人から「グンジさんが来ているよ」と告げられると,私は鞄《かばん》を放り出してグンジさんが仕事をして
いる部屋へ飛んでいきました。
 グンジさんは日がな一日、布団を縫ったり綿を入れたりしていましたが、子供好きで、手を動かしながらいろいろな話をして
くれました。例えば「岩見重太郎の狒々退治」とか「荒木又右衛門の仇討ち・三十六人切り」だとか「真田十勇士・猿飛佐助の
話」などを見てきたように話してくれるのでした。


  大東館


  油畑と大東館




  ………★ ………★ ………★ ………★ ………★ ……… 

思えば、日露戦争《1904》後から大正時代を中に挟んだ昭和一桁《けた》台までは、技術的にも、経済的にも未発達な時代で
あったかも知れませんが、それなりに、ロマンチックで暢気《のんき》な、良い時代であったと、懐かしく思います。
 こうした風潮、仕来り《しきたり》は昭和十年代、日本が戦争にのめり込み、物資需給や労働力関係が変わるに連れて、次
第に消え去っていきました。

不虻

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