六・一七大空襲の悲劇 フランク(古川さちお)
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- 六・一七大空襲の悲劇 フランク(古川さちお) (フランク, 2005/5/7 13:58)
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投稿日時 2005/5/7 13:58
フランク
居住地: 千葉県船橋市
投稿数: 5
先に書いた「七・二七鹿児島駅大空爆」で、私は死体の山の下敷きになりながら生き残るという体験をした。あまりにも衝撃的だったので、書き残すのはそれだけで十分としていた。
しかし、敗戦後六十年目となり、こちらも年寄りになってみると、戦争の体験は残らず書いておこうという気になっている。
一九四五年春から終戦前日まで、アメリカ空軍が爆撃によって日本の民間人をほとんど無差別に殺戮《さつりく》した記録は、未来永劫《みらいえいごう=永久》に残るだろう。記録は、広島・長崎への原子爆弾投下にとどまらず、全国各都市への執拗《しつよう=しつこい》な焼夷弾《しょういだん=油脂とさく薬を入れた爆弾》攻撃に及ぶ。その最たるものは、三月十日の「東京大空襲」であり、その惨状は多くの著書、映画、写真、絵画などに記録されている。
しかし、民家焼失の割合からすると、一夜にして市街地の九十パーセント、民家二万二千戸を失った鹿児島市の惨状の方がひどい。
六月十七日深夜騒がしい中、胸苦しい不思議な目覚めをした。下宿の二階から夢遊病者のように駆け下りる途中で眠りから醒《さ》めたのである。
外を見ると真昼のように明るい。探照灯に照らされたB29爆撃機《ボーイング社製の長距離大型爆撃機》が低空を飛んでいる。すでに見なれた機影ながら、こんな低空飛行を見るのは初めてだった。市街地では数ヶ所から赤い炎が立ちのぼっている。
真上の空には、焼夷弾の束が分裂してばら撒《ま》かれる光景を見る。シャラシャラという音とともに隣近所にも落ちはじめた。防空壕《ごう》どころではない。皆は、かねて用意の防火用品を持って、盛り砂の周りに集まる。
そのとき私は下宿の小母さんに呼ばれて懇願された。
「お願い!この親子四人を連れて、どこか安全な場所に避難してくれませんか。防火は私たち残りの者で何とかしますから」。
小母さんの姪《めい》に当たる奥田さんという母子が、前日神戸市から疎開《そかい=戦火を避けて田舎に住居を移す》してきたばかりだったのだ。その母親は重い喘息《ぜんそく》と結核に苦しんでいた。
地理に詳しい私は「任せなさい」と答え、すぐに広い甲突川の堤防をかけ降りて、まばらな草に覆われた川原に四人を誘導する。そこに座らせて下宿に戻り、防火作業に加わるつもりだった。
だがそうは行かない状況。燃え広がる近隣の火炎と探照灯は地上を真昼のように明るくしているのだ。さえぎるもののない川原の人影は、時折り敵機から撃ち出される機銃の的になりそうだった。
咄嗟《とっさ》の思案で、勝手知った中学校裏にある護国神社に向かう。そこは昼間の勤労奉仕で防空壕掘りを行っている崖《がけ》の下だ。工事半ばの神社は、山を背負う格好《かっこう=適当な》の避難場所だった。
夢中で走り着いた境内に母子を休ませ、ふと目の前の中学校校舎を眺めて驚いた。わが二年生の教室もある二階建て校舎の窓々が黒煙を噴《ふ》いているではないか。
思わず走り出しそうになったが、動けなかった。幼い子供たちと病気の母親を預けられた少年の身では、どうすることもできないのだ。座る母子を後ろに仁王立ちになった私だったが、じっと傍観するしかない。
噴出す黒煙は数メートルの炎に変わり、はじめ真っ直ぐに立ちのぼった。そのうち風が出たようで、炎は右に左に揺れる。火勢が弱まったと思った途端に、炎に包まれた校舎は大きな音をたてて焼け落ちた。そこで一時的に大きくなった炎も、見る見る小さくなり、いつまでも燃え続けた。かくて東の空が白む頃には、何もなくなる。
その頃敵機は去っていたが、街はいつまでも黄色い炎に包まれていた。
帰ってみると、下宿は近隣の数軒とともに無事だった。どの家も焼夷弾に見舞われたが、助け合いながら、日頃の訓練に従って砂で消火したのだと言う。
私は薄幸な母子を助けたという小さな満足感があった一方、大きな悔恨の情が後々まで残った。それは、母校の焼け落ちる姿を目の前にしながら、手をこまねいていたという自己嫌悪のような感情である。
鹿児島市六・一七空爆当時、私の住んでいた下宿は北の端・草牟田町の一隅だった。空襲の様相は、中心地近くに住んでいた多くの友人知人が、より恐ろしい惨状を書き残しているので、ここには書かない。
前記母子四人は、気の毒にその後も苦難を味わった。母親は遂に結核と喘息の併発で死亡し、子供たち三名は下宿の小母さんのほか、知人の家二軒に分けて預けられた。
敗戦後のある日、鹿児島港に向かう上海からの引き揚げ船に、偶然乗り合わせたという子供らの父親が訪ねてきた。小学生の長女を除き、下の男の子らにとっては見知らぬ人同様の父である。嫌がるのを強制的に連れて行かれた二児の姿は、涙なしには見られなかった。[了]
しかし、敗戦後六十年目となり、こちらも年寄りになってみると、戦争の体験は残らず書いておこうという気になっている。
一九四五年春から終戦前日まで、アメリカ空軍が爆撃によって日本の民間人をほとんど無差別に殺戮《さつりく》した記録は、未来永劫《みらいえいごう=永久》に残るだろう。記録は、広島・長崎への原子爆弾投下にとどまらず、全国各都市への執拗《しつよう=しつこい》な焼夷弾《しょういだん=油脂とさく薬を入れた爆弾》攻撃に及ぶ。その最たるものは、三月十日の「東京大空襲」であり、その惨状は多くの著書、映画、写真、絵画などに記録されている。
しかし、民家焼失の割合からすると、一夜にして市街地の九十パーセント、民家二万二千戸を失った鹿児島市の惨状の方がひどい。
六月十七日深夜騒がしい中、胸苦しい不思議な目覚めをした。下宿の二階から夢遊病者のように駆け下りる途中で眠りから醒《さ》めたのである。
外を見ると真昼のように明るい。探照灯に照らされたB29爆撃機《ボーイング社製の長距離大型爆撃機》が低空を飛んでいる。すでに見なれた機影ながら、こんな低空飛行を見るのは初めてだった。市街地では数ヶ所から赤い炎が立ちのぼっている。
真上の空には、焼夷弾の束が分裂してばら撒《ま》かれる光景を見る。シャラシャラという音とともに隣近所にも落ちはじめた。防空壕《ごう》どころではない。皆は、かねて用意の防火用品を持って、盛り砂の周りに集まる。
そのとき私は下宿の小母さんに呼ばれて懇願された。
「お願い!この親子四人を連れて、どこか安全な場所に避難してくれませんか。防火は私たち残りの者で何とかしますから」。
小母さんの姪《めい》に当たる奥田さんという母子が、前日神戸市から疎開《そかい=戦火を避けて田舎に住居を移す》してきたばかりだったのだ。その母親は重い喘息《ぜんそく》と結核に苦しんでいた。
地理に詳しい私は「任せなさい」と答え、すぐに広い甲突川の堤防をかけ降りて、まばらな草に覆われた川原に四人を誘導する。そこに座らせて下宿に戻り、防火作業に加わるつもりだった。
だがそうは行かない状況。燃え広がる近隣の火炎と探照灯は地上を真昼のように明るくしているのだ。さえぎるもののない川原の人影は、時折り敵機から撃ち出される機銃の的になりそうだった。
咄嗟《とっさ》の思案で、勝手知った中学校裏にある護国神社に向かう。そこは昼間の勤労奉仕で防空壕掘りを行っている崖《がけ》の下だ。工事半ばの神社は、山を背負う格好《かっこう=適当な》の避難場所だった。
夢中で走り着いた境内に母子を休ませ、ふと目の前の中学校校舎を眺めて驚いた。わが二年生の教室もある二階建て校舎の窓々が黒煙を噴《ふ》いているではないか。
思わず走り出しそうになったが、動けなかった。幼い子供たちと病気の母親を預けられた少年の身では、どうすることもできないのだ。座る母子を後ろに仁王立ちになった私だったが、じっと傍観するしかない。
噴出す黒煙は数メートルの炎に変わり、はじめ真っ直ぐに立ちのぼった。そのうち風が出たようで、炎は右に左に揺れる。火勢が弱まったと思った途端に、炎に包まれた校舎は大きな音をたてて焼け落ちた。そこで一時的に大きくなった炎も、見る見る小さくなり、いつまでも燃え続けた。かくて東の空が白む頃には、何もなくなる。
その頃敵機は去っていたが、街はいつまでも黄色い炎に包まれていた。
帰ってみると、下宿は近隣の数軒とともに無事だった。どの家も焼夷弾に見舞われたが、助け合いながら、日頃の訓練に従って砂で消火したのだと言う。
私は薄幸な母子を助けたという小さな満足感があった一方、大きな悔恨の情が後々まで残った。それは、母校の焼け落ちる姿を目の前にしながら、手をこまねいていたという自己嫌悪のような感情である。
鹿児島市六・一七空爆当時、私の住んでいた下宿は北の端・草牟田町の一隅だった。空襲の様相は、中心地近くに住んでいた多くの友人知人が、より恐ろしい惨状を書き残しているので、ここには書かない。
前記母子四人は、気の毒にその後も苦難を味わった。母親は遂に結核と喘息の併発で死亡し、子供たち三名は下宿の小母さんのほか、知人の家二軒に分けて預けられた。
敗戦後のある日、鹿児島港に向かう上海からの引き揚げ船に、偶然乗り合わせたという子供らの父親が訪ねてきた。小学生の長女を除き、下の男の子らにとっては見知らぬ人同様の父である。嫌がるのを強制的に連れて行かれた二児の姿は、涙なしには見られなかった。[了]