私の終戦前後
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- 私の終戦前後 (季寿, 2005/8/17 8:16)
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投稿日時 2005/8/17 8:16
季寿
居住地: 福井県小浜市
投稿数: 5
終戦の年、私は小浜(福井県)の国民学校《=太平洋戦争中、小学校は国民学校と改称された》2年生でした。
当時の思い出といえば、終戦間際《まぎわ》の7月頃からB29《=アメリカボーイング社製の爆撃機》がよくやって来るようになり、警戒警報のサイレンが鳴ると母と兄、妹、近所の人たちとお寺の竹薮《たけやぶ》の中にあった防空壕《ぼうくうごう=空襲の被害を避けるため地下や野外に作った避難場所》へ避難しました。私は、防空頭巾《ぼうくうずきん=頭から肩までおおう綿入れのかぶりもの》を被《かぶ》り、ずた袋《=何でも入れる大きな袋》のようなものを下げていました。何か貴重品でも入っていたのでしょうか? 夜は、着の身着のままで寝ていたようで、電灯の笠《かさ》には黒い覆い《おおい=明かりがもれて空襲の目標にならないように黒い布をかけた》がしてありました。
8月15日は、近所の人たちや母と、ラジオがあった隣の家の玄関先に集まり、正午からの玉音《天皇のお声》放送を聴きました。もちろん、その内容は分かるはずもありませんが、母が「戦争に負けたんや」といったのを覚えており、また、「今日から明るくして寝られる」と言ったのが印象に残っています。
乳飲み子や私ら小さい子供を抱えた状態での生活は、大変だったと思います。父は殆ど《ほとんど》毎日会社に泊まり込みだったようです。何故《なぜ》だったかは分かりませんが…
戦後の食糧難については、余り実感はありませんでした。父は勤務先の工場の食堂に調理師として、働いていて殆ど全て《すべて》てを任されていて、おかずの残り物の中から家族が食べる分だけ持って帰ってくれました。殆ど毎日食堂の残り物ばかりを食べていたようです。
学校の思い出といえば、終戦前から疎開児童《そかいじどう=空襲から逃れるため都会から田舎へ移動したこども》が多く転入してきて22年ごろまでいたようです。一クラス60人を超えるような状態で、教室も空いてる場所がない位でした。教科書もわら半紙《粗末なざら紙》で作られたのや、あちこち墨が塗られた《=戦時中の古い教科書は不都合な所を墨で塗りつぶして使った》のを使いました。 22年4月からは、全クラス男女組にクラス替えがあり、教科書も全て新しいものを使えるようになりました。
断片的な事しか思い出せませんが、まだ幼かったこともあり、また幸いにして戦災に遭《あ》わなかったこと、それに父が戦争に取られなかったこと等、戦争は恐いという実感はありませんでした。
当時の思い出といえば、終戦間際《まぎわ》の7月頃からB29《=アメリカボーイング社製の爆撃機》がよくやって来るようになり、警戒警報のサイレンが鳴ると母と兄、妹、近所の人たちとお寺の竹薮《たけやぶ》の中にあった防空壕《ぼうくうごう=空襲の被害を避けるため地下や野外に作った避難場所》へ避難しました。私は、防空頭巾《ぼうくうずきん=頭から肩までおおう綿入れのかぶりもの》を被《かぶ》り、ずた袋《=何でも入れる大きな袋》のようなものを下げていました。何か貴重品でも入っていたのでしょうか? 夜は、着の身着のままで寝ていたようで、電灯の笠《かさ》には黒い覆い《おおい=明かりがもれて空襲の目標にならないように黒い布をかけた》がしてありました。
8月15日は、近所の人たちや母と、ラジオがあった隣の家の玄関先に集まり、正午からの玉音《天皇のお声》放送を聴きました。もちろん、その内容は分かるはずもありませんが、母が「戦争に負けたんや」といったのを覚えており、また、「今日から明るくして寝られる」と言ったのが印象に残っています。
乳飲み子や私ら小さい子供を抱えた状態での生活は、大変だったと思います。父は殆ど《ほとんど》毎日会社に泊まり込みだったようです。何故《なぜ》だったかは分かりませんが…
戦後の食糧難については、余り実感はありませんでした。父は勤務先の工場の食堂に調理師として、働いていて殆ど全て《すべて》てを任されていて、おかずの残り物の中から家族が食べる分だけ持って帰ってくれました。殆ど毎日食堂の残り物ばかりを食べていたようです。
学校の思い出といえば、終戦前から疎開児童《そかいじどう=空襲から逃れるため都会から田舎へ移動したこども》が多く転入してきて22年ごろまでいたようです。一クラス60人を超えるような状態で、教室も空いてる場所がない位でした。教科書もわら半紙《粗末なざら紙》で作られたのや、あちこち墨が塗られた《=戦時中の古い教科書は不都合な所を墨で塗りつぶして使った》のを使いました。 22年4月からは、全クラス男女組にクラス替えがあり、教科書も全て新しいものを使えるようになりました。
断片的な事しか思い出せませんが、まだ幼かったこともあり、また幸いにして戦災に遭《あ》わなかったこと、それに父が戦争に取られなかったこと等、戦争は恐いという実感はありませんでした。