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ひもじかった思い出 (かたふり)

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  • 通常 ひもじかった思い出 (かたふり) (編集者, 2007/3/31 8:26)

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編集者

通常 ひもじかった思い出 (かたふり)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/31 8:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものの転載です。
 
 当時、「メロウフォーラム」では、テーマを設けて「臨時会議室」を開設し共通のテーマで戦中・戦後の記憶などを語り合ったものでした。
 「食糧難時代」も、その臨時会議室のテーマでした。ここに掲載するものは、そのなかで、投稿者のご了解を得られたものです。

 ・タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。

 ・ 》、> の後に続く文章は、会議室での他の方の発言の「一部引用」です。

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  ひもじかった思い出(1) 97/07/12 17:02

 食糧難時代を生き抜いてきた、大多数のメローの皆さん、今日は。
 戦後ひもじい思いをたっぷりと味わった一員として、矢張り何かアップしなければと出てきました。

 終戦の年は小学6年生で、縁故疎開《注1》で愛媛県の肱川《ひじかわ》と云う所に半年間暮らしたため、丁度その頃から厳しくなってきた食糧難の影響を受ける事もなく、平穏無事でした。

 戦後暫くして、大阪に帰ってきてからは、高校を出る位まで、毎日がひもじさとの戦いで、伸び盛りの少年にとっては苦痛そのものでした、
 しかし、子供5人を抱えた両親はもっと、大変だっただろうと思います。

 食糧難時代に食べた内容は皆さんと大同小異ですが、今までにアップされていない内容について若干、報告したいと思います。

 ぐんぱん、恐らく軍飯という字を当てるのだと思います、当時の記憶に間違いがあるかも知れませんが、お米を琺瑯鍋《ほうろうなべ=注2》でじっくりと炒り、その炒った米を水(湯?)に浸け、外部を布団、毛布などでしっかりと包み、1昼夜程寝かすと(冬などは豆炭炬燵《こたつ》に入れる)数倍にも膨れ上がった炒り米食が出来上がります。

 実質的には、何ら変わらなくても、茶碗で半膳の所を2膳位は食べれるから、少々スカスカでも、その時は、一寸、余分に食べたなあと云った気分になったものです。僅かな配給の米を見掛けだけでも増やすための涙ぐましい努力でした。

 この他に、ほんだわらと云う海草を米の中に混ぜて一緒に炊いた飯を良く食べました、これは、近所の人から教わったもので、当時、食した他のまぜ飯同様、ほんだわらの中に米粒が混じった物で、当時でも全く美味しくなかった主食でした。

 注、今回この記事を書くにあたって、ほんだわらを調べたら、カリウムを多く含み、肥料として使われているそうです。
 
 当時、通学していた、旧制中学は大阪でも南部に相当した位置にあり学友は比較的農家の者が多く、一番の悩みは昼食の弁当でした。
 圧倒的な銀シャリ弁当族の中で麦飯又はふかしいもなどの代用食を食べるのは、かなり、勇気が要り、どうしても、非農家出身の仲間が集まって一緒に食べたものです。
 弁当と云えば、通称、土方弁当と云われる大きな弁当箱に当時配給のメリケン粉を溶いたものを入れ、仲に電極を立て通電すると、暫くして蒸かしパン的なものが出来、そのまま、学校に持っていった事がある、これは、友人に教わり、暫くは同じものを弁当として持って行ったものでした。

 少年時代の成長期に、この様な食事ばかりで、社会人になって定年迄がむしゃらに、働くだけの体力が出来たものだと、感心しています。

 この様な食事に学校の教科書は、新聞紙の用紙にガリ版で刷ったものを各自、切って使用したと云う哀れなものでしたが、当時の学校はイジメもなく、からっとして楽しい雰囲気だったのが救いでした。

                        
 ひもじかった思い出(2) 97/07/16 17:12

 大吉 さん、始めまして。

 本会議室のテーマ、食料難時代をご提案されたのは大吉さんでしたね。
 ひもじかった時代--伸び盛りの少年時代にとっては切実な問題でした。

 「楠公飯」の由来有り難うございました。しかし。

>「楠公飯」の名前の由来は、真偽のほどは解りませんが、、楠木正成が足利幕府と戦って千早城に篭城した時に、乏しい兵糧をできるだけ増やして食べたことからと聞いたような気がします。

 吃驚《びっくり》しました、私の住居地は楠木正成が活躍した南河内で在学した中学校が金剛山の麓にあるため、紋章は菊水を採用していた程で,幼い頃から大楠公、小楠公に関する話しは耳にたこが出来るほど聞かされていたため楠公さんの事は大抵知っていると思っていたのに、ぐんぱんの由来が楠公さんに関係があったとは全く意外でした。
 らごら さんも「なんこう飯」と云われていたから、案外、由来は楠公さんから来ているのかも知れませんね。

 往時の、お話し楽しみにしています。


 ひもじかった思い出(3) 97/07/16 17:11

 らごら さん、今日は。

 レス有り難うございました、沢山の涙が出てくるような、そして、ほろ苦い思い出話,尽きないものですね。

>なかなか合理的なパン焼器なのですが。内容物が乾かない間はものすごく電流が流れるので、よくヒューズが飛んだものでした。

 当時は何かと、よくヒューズが飛んだものです、特に電熱器のニクロム線が切れると素人が応急修理するため、時にショートしてヒューズが飛びローソクを片手に復旧しました。
 電球も切れると、スイッチはそのままで、ぶら下っているフィラメントを、電球を振って元の位置に来るようにすると、うまくついたものです、確率はかなり、高かった様に記憶しています。

 食糧難時代のテーマから外れてしまったようです。


 ひもじかった思い出(4) 97/07/16 17:12

 かれい さん、お久しぶりです。

>育ち盛りの男の子が飢餓状態にさらされるのは、本当にたまらないことでしたでしょうね。

 年中、ひもじい状態で、家の庭の幾らもない樹木は、柿とイチジクを除いた、いわゆる鑑賞的なものは全て取り払い,耕して畠とし、一部は鶏小屋に化けました、鶏は当時、10羽はいたと思います,毎日、卵を8コは生むため、当時の家族8名分の蛋白源はかなり、確保出来たことになります、その代わり鶏の餌としてハコベを摘んできて、細かく刻み糠《ぬか》と少量の貝殻を砕いた粉末を混ぜる役目でしたが、これが毎日なので案外大変だったんですよ。

 ところで冬季には何の餌をやったのか、記憶にないのです。

 たとへ、ひもじくとも、鞄の中には代用食の弁当、新聞紙用紙にガリ版刷りの教科書を詰め肩からぶら下げて、年中、素足に下駄履きで中1から電車で通学するのが楽しみでした。
 この電車が1両精々2両連結で、通勤と反対の方向だったため、通学時間帯は当時、南河内地区で男女各1校しかなかった、中学校と女学校専用の通勤電車みたいなものでした。中学2年までは、まだまだ、戦中の道徳が生きていたのか、1両でも2両でも前半分又は前の車両が男生徒、後が女生徒と厳然と区別されていました、中3からは男女共学になったため,この垣根も自然消滅となり、通学の楽しみが増えたと喜んだものでした。

 学校では、少なくとも1年生の時は、まともな授業はなく、学校から、歩いて1時間近くの丘陵を開墾してサツマイモを栽培し、収穫時には全校生徒の昼食がサツマイモとなったものです。
 たまに、授業があっても、先生自体がひもじいためか、戦争に負けて無気力になったせいか、休講になるケースが多く、その場合は、運動場に飛び出し、裸足で野球、サッカーなどに興じたのですが、不思議とその時だけは、ひもじさを忘れていたようです。

注1 縁故疎開=学童の集団疎開に対し、親戚や知人を頼ってする疎開
注2 琺瑯鍋=鍋を装飾するためにガラス質のうわぐすりを表面に塗り、高温で焼き付けたもの

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編集者 (代理投稿)

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