私の仙台空襲体験記 (千葉 てい )
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- 私の仙台空襲体験記 (千葉 てい ) (編集者, 2007/8/5 7:29)
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投稿日時 2007/8/5 7:29
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
(はじめに)
千葉さん(94)が今年発表された手記です。
いまも、仕事に趣味に元気で活躍中の方です。
メロウ伝承館スタッフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和二〇年七月九日午後一一時五七分即ち七月一〇日の三分前突然大豪雨のような轟音《ごうおん》と共に国分町方面から北に向かってーッザザーッという音が頭上を通り過ぎました。 敵機の襲来です。 頭を抱え仏壇の前にうつ伏したまま震えました。 何と下駄を履いたまま畳の上に居りました。
姑《しゅうとめ》に二枚続きの毛布を被せ、私は掛け布団をかぶって店の硝子戸を開けて外に出た。 逃げ場は台の原とひらめいた。 当時の台の原は広い丘の原野だった。
北二丁町角の食料品店の角に防火用水のドラム缶が置いてあったので毛布と掛け布団を濡らし右折しました。 その時、姑がどこかに行ってしまって姿が見えない。 必死で探し出し、やっとこ道路に出た途端、八百粂《やおくめ=1910年創業の料亭・04年閉店》の屋敷内に焼夷弾が落ちてきて爆音と共に真っ赤な火炎に包まれた長い黒塀が燃えながらバッサリと倒れ道路を塞《ふさ》いでしまった。 後ろも両脇も燃えあがっていて四方火に囲まれてしまった。 「ハッ」と思った。ここで死ぬのか!背中に二〇センチ位の幅で氷水が流れるように「ゾー!」としました。 何とかここから逃れたい。 どうしよう。 火の中を突っ切るより他は無い。 助かるかどうかは解らない。 火傷《やけど》はするだろうが。 「お姑さん、目をつぶってください。 私が手を引くから、黙って私と一緒に走ってください。」 濡《ぬ》れた掛け布団の下で手を握り必死に走りました。 火の中に入ってみると以外と火の付かない場所があった。 その場所を探しながら、ジグザグに走りまくった。 燃えている塀の何と長かったことか。 私にはそう思われた。 匂当台《こうとうだい》通りに、やっとたどり着いたらそのままべったりと座ってしまい少しの間動けなかった。 北四番丁角の佐藤病院が盛んに燃えているのでその広い通りには行けなかった。 そのまま堤通に入り北を目指して走った。 頭上の敵機は下からの炎の色を受けて真っ赤な魚のように見えた。
その圏内から逃れたくて走ったがどうしても逃れることが出来ずあせりにあせった。 子供の頃夢で化け物に追われる夢を見たあの感じを思い出した。
北六番丁旧制二高の前に人がいた。 防空壕の入り口らしかったので入れてくださいと頼んだら駄目と言われた。 台の原方面から敵機に向けて高射砲が発射されるのが見えた。 だが弾は敵機まで届かず消えてしまった。 あぁこれではと溜息するより他は無かった。
台の原方面は敵に狙《ねら》われている。 危険だ。
と考え七北田方面へと向かった。
途中今の黒松団地近くで人声がするので草を踏み分けていってみたら防空壕だったのでお願いをしてみたらここでも駄目と断られた。 「お姑さん、あなた一人だけでも入れてもらいなさい。」と言いながら力ずくでお姑さんを押し込んだ。 私はその壕の入り口に立ち仙台を振り向いたら一面の火の海。 それでも深夜の空気は冷たく心地よかった。 想いっきり胸いっぱい空気を吸い込んで。 あぁ私はまだ生きているんだ。
うんうんと一人で頷《うなず》いていました。 その時仙台の上空に現れた敵機から青白い光を放ちながら照明弾が落ちてきました。 回りが明るく照らし出され。 すぐその後から赤いものが降り傘を開いたようにパッと広がりその各々の先から又々赤色のものが線香花火の様にそのまま落下。 たちまち地上から大火炎が黒煙と共に立上った。 呆然《ぼうぜん》と眺めるばかりでした。
午前三時頃、空も辺りも薄明るくなり始めたので重い足を引きずりながら仙台に足を向けました。 「皆、青葉神社に居るよ」と声を掛けて通った人があったので青葉神社に行ってみた。 そこで二日町の人々の一団に会う事が出来た。
そこから見た仙台は、焼け野ヶ原。 呆然と眺めるのみだった。
翌日、私が見たものはまさに地獄そのもの。 黒焦げの人体。防空壕の中で蒸し焼かれた焼死体。 その焼死体を引き出す作業をする人々。 まざまざと今でも瞼《まぶた》に、その残像が残っております。 日清、日露、第一次世界大戦、支那事変から始まる第二次世界大戦と戦争に始まり戦争に終わった我々の世代も終戦六〇年も続いた平和を守り通して是非是非後世に平和の有り難さを繋《つな》いで行くことを信じて体験談を終わりたいと思います。
千葉さん(94)が今年発表された手記です。
いまも、仕事に趣味に元気で活躍中の方です。
メロウ伝承館スタッフ
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昭和二〇年七月九日午後一一時五七分即ち七月一〇日の三分前突然大豪雨のような轟音《ごうおん》と共に国分町方面から北に向かってーッザザーッという音が頭上を通り過ぎました。 敵機の襲来です。 頭を抱え仏壇の前にうつ伏したまま震えました。 何と下駄を履いたまま畳の上に居りました。
姑《しゅうとめ》に二枚続きの毛布を被せ、私は掛け布団をかぶって店の硝子戸を開けて外に出た。 逃げ場は台の原とひらめいた。 当時の台の原は広い丘の原野だった。
北二丁町角の食料品店の角に防火用水のドラム缶が置いてあったので毛布と掛け布団を濡らし右折しました。 その時、姑がどこかに行ってしまって姿が見えない。 必死で探し出し、やっとこ道路に出た途端、八百粂《やおくめ=1910年創業の料亭・04年閉店》の屋敷内に焼夷弾が落ちてきて爆音と共に真っ赤な火炎に包まれた長い黒塀が燃えながらバッサリと倒れ道路を塞《ふさ》いでしまった。 後ろも両脇も燃えあがっていて四方火に囲まれてしまった。 「ハッ」と思った。ここで死ぬのか!背中に二〇センチ位の幅で氷水が流れるように「ゾー!」としました。 何とかここから逃れたい。 どうしよう。 火の中を突っ切るより他は無い。 助かるかどうかは解らない。 火傷《やけど》はするだろうが。 「お姑さん、目をつぶってください。 私が手を引くから、黙って私と一緒に走ってください。」 濡《ぬ》れた掛け布団の下で手を握り必死に走りました。 火の中に入ってみると以外と火の付かない場所があった。 その場所を探しながら、ジグザグに走りまくった。 燃えている塀の何と長かったことか。 私にはそう思われた。 匂当台《こうとうだい》通りに、やっとたどり着いたらそのままべったりと座ってしまい少しの間動けなかった。 北四番丁角の佐藤病院が盛んに燃えているのでその広い通りには行けなかった。 そのまま堤通に入り北を目指して走った。 頭上の敵機は下からの炎の色を受けて真っ赤な魚のように見えた。
その圏内から逃れたくて走ったがどうしても逃れることが出来ずあせりにあせった。 子供の頃夢で化け物に追われる夢を見たあの感じを思い出した。
北六番丁旧制二高の前に人がいた。 防空壕の入り口らしかったので入れてくださいと頼んだら駄目と言われた。 台の原方面から敵機に向けて高射砲が発射されるのが見えた。 だが弾は敵機まで届かず消えてしまった。 あぁこれではと溜息するより他は無かった。
台の原方面は敵に狙《ねら》われている。 危険だ。
と考え七北田方面へと向かった。
途中今の黒松団地近くで人声がするので草を踏み分けていってみたら防空壕だったのでお願いをしてみたらここでも駄目と断られた。 「お姑さん、あなた一人だけでも入れてもらいなさい。」と言いながら力ずくでお姑さんを押し込んだ。 私はその壕の入り口に立ち仙台を振り向いたら一面の火の海。 それでも深夜の空気は冷たく心地よかった。 想いっきり胸いっぱい空気を吸い込んで。 あぁ私はまだ生きているんだ。
うんうんと一人で頷《うなず》いていました。 その時仙台の上空に現れた敵機から青白い光を放ちながら照明弾が落ちてきました。 回りが明るく照らし出され。 すぐその後から赤いものが降り傘を開いたようにパッと広がりその各々の先から又々赤色のものが線香花火の様にそのまま落下。 たちまち地上から大火炎が黒煙と共に立上った。 呆然《ぼうぜん》と眺めるばかりでした。
午前三時頃、空も辺りも薄明るくなり始めたので重い足を引きずりながら仙台に足を向けました。 「皆、青葉神社に居るよ」と声を掛けて通った人があったので青葉神社に行ってみた。 そこで二日町の人々の一団に会う事が出来た。
そこから見た仙台は、焼け野ヶ原。 呆然と眺めるのみだった。
翌日、私が見たものはまさに地獄そのもの。 黒焦げの人体。防空壕の中で蒸し焼かれた焼死体。 その焼死体を引き出す作業をする人々。 まざまざと今でも瞼《まぶた》に、その残像が残っております。 日清、日露、第一次世界大戦、支那事変から始まる第二次世界大戦と戦争に始まり戦争に終わった我々の世代も終戦六〇年も続いた平和を守り通して是非是非後世に平和の有り難さを繋《つな》いで行くことを信じて体験談を終わりたいと思います。
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編集者 (代理投稿)